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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第15回   15
       第二部  ウォッチ・ザ・スカイ!





                16

                                       
 その図書館は四階建てで、欧州古典主義を模した、古風で堂々とした《前面》(ファサード)を有していた。ゆるくて幅広の四十段もある石段を上がった正面玄関の両脇には、古くていかめしいブロンズ製の雄ライオンが、二頭鎮座し、無知で怠惰な《読む本はベストセラーばかり》といった大半の訪問客を睨みつけていたし、反対に本ばかり読んで驕 (おご) った顔つきをしている《読書する怠け者たち》には、引き締まった口元を見せつけ、《もっとましなすることを見つけるのだ》と威嚇していた。
 リリーは図書館が開くまでの数時間、建物の前の公園広場の一角で、ペンキのはげ落ちたベンチにうずくまり、ごみ箱から拾い集めた新聞紙を幾紙も広げて、社会情勢や国際紛争、はてはリリーにはちんぷんかんの経済欄まで、繰り返し読み耽った。
 十二時が近づき、人々の群れが図書館に向かって流れ始めると、すでにできた列の先頭には、うらぶれたかっこうの宿なしが、背中を丸めて立っていた。男とつぎに並んだセーターの女とのあいだには、巧妙にとられた、すき間と呼ぶにはあまりに大きな空間が広がっている。
 ようやく図書館が開いて、リリーが列の最後尾で中に入ると、一番前の浮浪者が閲覧室の机の一つに陣取り、ものの五秒とたたないあいだに眠りについた。
 大きな鼈甲縁の眼鏡をかけた、やせて五十年配の、くすんだ司書の女がやって来て、訳知り顔に宿なしの肩に手をかけてゆすぶった。「ベン。ベン。こんなところで寝ていたら、体に毒だわ。起きなさい。起きなさい。ベン」
「うるせえな、放っといてくれよ。働く場所がないんだから、仕方がないじゃないか」
 男は寝ぼけたようにつぶやいて、眠りの中に埋没した。
 小競り合いに閲覧室にいた幾人かが気がつき、不快な現実から目をそらしたい人間の常で、秩序と規律のある人間の側に――司書の味方に全員がついた。
 リリーは反射的に言い放った。「いいじゃない、そっとしておいてあげれば。かれ、眠っていたいのよ」
 リリーをふり返った司書の目に、軽い驚きと、はた迷惑そうな表情とが走った。
「あなたがどこの何様か知らないけど、寝ているかれを起こして排除する権利はないはずよ。市条例百二十八項のB。《市民はたとえ何人であっても、市の公共施設を利用する権利を有し、公共の福祉と目的に反しない限り、その意図を問われることもない》。ちゃんと知っているはずよ、おばあさん」
 おばあさんと呼ばれて、司書の女は微笑んだ。
 リリーも女も、該当する項目などないことは承知していた。
 見物の中の無責任な若い男の声が、「いいぞ、小せえの! うまくやりこめたな!」
「わたし、小さいのじゃないわ! リリーよ!」
 むっとした表情でふり返り、しまったという顔をする。
 その名前は昨日、事故現場のテレビ中継でしゃべったはずだ。
 恐る恐る見まわすと、気づいた者はいないようだった。
 そう言えば、夕べ市に帰ってから、どこにも自分に関するニュースが流れていないのに、リリーは面喰らっているところだった。
 もう一度、眠っている男と司書に目を戻す。この境遇に落ち込んだ人間は、実際より老けて見えるものだが、男は三十歳をいくらも越えていないような、意外と若い人間ではないかと思われた。
 司書の女は間近で見ると、枯れ終わった路傍の花のような風情があった。今も輝きが保たれた茶目っ気たっぷりの目が、リリーの上に値踏みするように注がれている。「おかしいわねえ。あなたの顔、前にもどこかで見たことがあるけど、前にも会ったかしら?」
「そんなこと――あれこれ詮索されるいわれは――ないと思うけど――」
 言いながら、リリーの頬が引きつった。
「そうね、あなたの言う通りかも。ところで、彼をここで寝かせるわけにはいかないのよ。ここより寝心地のいい場所が奥にあるし、温かいコンソメ・スープもできているから」
「コンソメ? コンソメって言わなかったか? コンソメって、あのコンソメのことか?」
 眠っていたはずの男が起き上がった。
「そうよ。あのコンソメも、このコンソメも、コンソメスープは一種類しか存在していないわ。今もそのうちの一皿が、奥で首を長くして待っているところよ」
 男はばね仕掛けの人形のように、ぴょこんと立ち上がった。
 女がベンをせきたてて、広大な図書館の奥の院に連れて行くのを、リリーは呆気にとられて見送っていた。
 ふり返ると、無責任なギャラリーは、いつの間にかいなくなっている。
 ふいに誰かの手が背中に触れて、リリーは飛び上がった。
「なんだ、あなたなの! おどかさないで!」
「ごめんなさい、びっくりした?」
 さっきの司書の女がいたずらっぽく笑って、内緒話を打ち明けるように、リリーをかたわらに呼び寄せた。「いい物があるのよ。あなたにあげようと思って、持って来たのよ」
 女はスカートのポケットから、チョコヌガー・バーの包みを取り出した。
 リリーの目が見開かれる。
「あなたもお腹がすいているんじゃない? 違う?」
「いいえ。そんなことありません」
 その途端、リリーのお腹が鳴った。
 リリーと司書は顔を見合わせ、リリーは真っ赤になった。
 すぐそばを返却された本を山のように抱えた、男の図書館員が通り過ぎる。二人は秘め事を相談するスパイのように、『自然科学』の棚の陰にすばやく隠れた。男は行ってしまった。
「どうなの? ほしいの、ほしくないの?」
「ほしいです」
「では、こっちへ来て。ここじゃまずいわ」
 女は勝手知ったる宮殿の廊下を走り抜けるこまねずみのように、すばやく移動した。リリーは思いがけない冒険に巻き込まれた気がして、手を引かれるままに書架のあいだを通り抜け、職員専用階段を下りると、地下にある休憩室に連れ込まれた。そこは近代的な設備を誇るこの図書館にあって、いやにかびた、薄暗い一角だった。エジソンの時代からの遺物ではないかという、裸電球が剥き出しになった漆喰塗の天井も低く、少しでも背の高い人間なら――ベリンスキー警部だったら――つかえてしまうのではないかと思われた。
 昔、アメリカに到着したばかりの移民たちを収容した、エリス島の収容所の一室を連想させたが、リリーは落ち着き、心がなごむのを覚えた。部屋には作業台をかねた古風なマホガニー製のテーブルと、同じくらいみすぼらしい粗末な木の椅子が二脚、片隅に寄せられていた。リリーがなかばあきれ、なかば感心したように見まわしていると、
「ふふ。おどろいたでしょ? ここは魔女を閉じ込めて拷問した部屋なのよ。悪魔と契約した証拠のあざがついていないか、確かめるための」
「まさか!」
「本当よ。あの壁にあるしみを見てごらんなさいな。何かの形に見えてはこなくて?」
 女は壁の一隅を指さした。四方を囲んだ黄色い壁の一枚の、中央やや下に、黒ずんだしみがついている。醜いといってもいい、どす黒いしみだった。
 リリーが見つめていると、思わせぶりに女が言った。「あれはね、この部屋で殺された若い娘の妄念なの。いわば死霊のサインね。この部屋はね、リリー――」
「えっ? どうして、わたしの名前を?」
「さっき、自分で教えてくれたじゃないの」
「あっ、そうか」
「それでね、この部屋の由来のことだけれど、ここの壁は、元はニューイングランドに十八世紀から伝わる、由緒ある屋敷の地下室の一部だったのよ。ここに図書館を建てる時、材料が足りなくて、わざわざその場所から、荷馬車で運んだんですって。そこには清教徒革命を逃れてイギリスから渡って来た、わたしたちの先祖のピルグリム・ファーザーとは別の一派が住んでいて、容赦ない厳格なコミュニティーを作りあげ、容赦ない厳格な信仰生活を送っていたのよ。ホットチョコレート、飲む?」
「えっ?」
「作ってあげましょうか、熱くておいしいやつ。まだパウダーが残っていたと思うわ」
 女は部屋の隅にある、飛行機のギャレのような簡易キッチン (キチネット) に行くと、鍋を電熱コンロで温め始めた。
 女の歌うような声が聞こえてきた。
「ある日、そのコミュニティーに、ぼろぼろに朽ちた難破船に乗って、美しい娘がやって来るのよ。その娘は――ちょうど、今のあなたみたいな感じかな。くるくるっとした巻毛が可愛い、金髪の女の子で、名前はクリスティアン。もちろんクリスチャンからとったのよ。いいでしょ?」
 女は夢見るような調子で、
「クリスティアンはみなしごで、イギリスで起きた農民の反乱によって二親を失い、よるべない身の上となって、新大陸に逃れて来たのよ。でも、船の中で蔓延した疫病のせいで、女の子を残して、乗組員はみんな死んでしまったの。女の子の身の上話を聞いて、不憫に思ったコミュニティーの長は、女の子がただ一人生き残って、そこへたどり着いたのは、まさに神様の思し召しに違いないと信じて、クリスティアンというその子を引き取って、養女にしようと決心したの。でも、コミュニティーにいた信仰の篤い牧師は、女の子が恐ろしい疫病や反乱にも耐えて、船の中で死にもせずにたどり着いたのは、神の思し召しではなくて、悪魔の差し金だと思って反対したのよ。でもコミュニティーの全員に、牧師は笑い者にされた。不信仰な人達って、いつの世にもいるものよね」
 リリーはうなずいた。
「その子が悪魔に遣わされた娘であると、ただ一人確信した牧師は、その証拠を探すため、難破した船に乗り込んで、ついに恐ろしい証拠を見つけたのよ。何だと思う?」
「血染めのハンカチか何かですか? あ、わかった。航海日誌だ」
「ご名答。そこには次のような恐ろしいことが書いてあったの。女の子は旧大陸から乗り込んだのではなく、海の上で筏に乗って漂流しているところを、船に助け上げられたのよ。みんなは油断するわ。罪のない、ただの女の子ですもの。でも、本当は船で起きた疫病や反乱は、全部その子の起こした企みの一部なのよ。なんと、その子は旧大陸の悪魔を信奉する秘密結社が、新大陸アメリカを堕落させて滅ぼすために、自分たちの手先として送り込んだ悪魔の申し子、サバトの残酷な生贄の子だったのよ」
 女はコンロから鍋を下ろし、ほうろうびきのカップに中味を注いで、リリーのところへ戻って来た。
「今、できている筋書きはそこまでなの。どう、面白いでしょ? はい、どうぞ」
「あんがと。えっ? それ、あなたの作った話?」
「そうよ。いけない?」
 司書の女は、自分の仕事ぶりに満足した彫刻家のような目つきで、うっとりとため息をついた。リリーはカップに息を吹きかけて冷ましながら、女の話は興味をそそられる内容だと思った。
「それ、なんて題名?」
「『悪魔の乳飲み子、または神の子を襲う、残酷にして真実の試練』」
 リリーは首をかしげた。「十八世紀ゴシック文学風は、いまいちはやんないと思うな。それより『クリシー』にしたら? 簡単で覚えやすいじゃん。クリスティアンのクリシー。水晶 (クリスタル) や危機 (クライシス) や十字架 (クロス) にも似ているよね」
「『クリシー』ねえ。少しばかり、商業主義と妥協していないかしら? でも、候補の一つに考えておきましょう」
「今の話にしみが出てこないじゃないの。あの壁のしみはどうなったわけ?」
「よくぞ訊いてくれました。実は物語のクライマックスと関係があるの。そこだけはしっかりと設定を組んで、もうでき上がっているのよ」
「どんなの、どんなの?」
「あとで話すわ。それより、今は顔を洗った方がよくはなくて?」
 リリーがうんともすんとも言わないうちに、女はリリーを抱きかかえ、キチネットに連れて行くと、薄汚れたリリーのブラウスの袖をめくり、石鹸の泡を立てて、リリーの顔といわず腕といわず、ごしごしとこすった。リリーはよるべない仔猫になった気分で、悲鳴を上げていたが、それがすむと見違えるようになった。
「ペーパータオルしかないから、これでお拭きなさい。そう、いいわよ。それはそうと、成長したクリスティアンは、コミュニティーの長の息子と恋人同士になるのよ」
 女は何ごともなかったように続けた。
「彼女を引き取って養女にした荘園領主には――今、思いついたけど、領主ということにしましょう、その方が都合がいいし――その領主には息子がいてね。いわば彼女の義理の兄にあたるのだけれど、二人は相思相愛の間柄になるわけ」
「そうしそうあいって?」
「つまり、できちゃうわけね」
「えっ、兄と妹で? なんたるふしだら!」
「もちろん許される関係ではないため、二人はコミュニティーの全員とたもとを分かって、ある屋敷に隠れ住むのよ。それがこの壁のあった、元は修道院だった建物を改築した、地主の屋敷だったのよ」
「あ、でも、さっきはピルグリム・ファーザーたちの子孫が暮らした屋敷だって」
「いいでしょ。それでね、日毎夜毎、二人は道ならぬ恋に溺れていく。でも、ある日、領主の息子は恐ろしい真実に気がついてしまう。かれの義理の妹が、この世の者ではないという事実によ。なんと彼女のお尻には、すきの形になった尻尾がついていたの」
「げげっ」
「彼女の正体を知った息子は、自分がサタンの罠にはまったと気がついた。一度は彼女のもとを離れようと決意したけれど、それでも愛には勝てなかったのね。妹の体にとり憑いた (と彼自身は思っている) 悪魔を追い出し、また一方では、道ならぬ愛欲に溺れた自分自身の弱さに打ち勝って、神の恩寵と赦しとを乞い願うべく、悪魔の娘クリスティアンを屋敷の地下室にある、古びた牢の鉄鎖につなぐと――ほら、昔の修道院て、そういう部屋がありそうじゃない?――日夜、祈祷を繰り返しては、妹にして悪魔の申し子クリスティアンを、鞭や拷問道具を使って責め苛み、苦しめるのよ。壁のしみはその時、苦痛のあまりにクリスティアンの流した血と涙の跡が、部屋の松明の火にあぶられて焼き込まれた、憎しみの心模様なのね。最終的には、苦悶と絶叫の果てに彼女は死ぬ。でも、ラストで天上から光が差し込み、霊となったクリスティアンが微笑みながら現われて、彼女の魂が天国において救われたことが、彼女自身の口から告げ知らされる。つまり絵に描いたハッピーエンドってわけよね」
「なるほどね」
「実はその場面だけで、もう三百ページは書きためてあるのよ」
「げげ。げげげ」
「ほら、チョコレート・バーが溶けてしまうわ。早くおあがりなさい」
 司書は何食わぬ顔で、
「それにしても、見れば見るほど興味やアイデアがわいてくる、不思議なしみよねえ」
 リリーはチョコヌガー・バーの包みを歯で噛み破りながら、目の前の女は罪のない作家志望者か、はたまた人畜無害な図書館司書に化けた、悪魔の化身かといぶかった。
 チョコヌガー・バーは空腹をいやすどころか、ますます増幅させ、リリーはくらくらと目まいを感じた。もっと、何か食べたい。食べなきゃ、このままゾンビになりそうよ。
 司書の女は心得たように笑って、キッチンにとって返すと、ハミングしながら部屋の隅にある冷蔵庫の扉を開け閉めした。やがてフライパンで油のはねる、悩ましい音が聞こえてきた。
「目玉焼きをこしらえてあげるわ」女はリリーがのぞき込んでいる戸口の方をふり返り、にっこりした。「ベーコンも焼いてあげる」
 リリーはうなずいて、唾を飲み込んだ。
 卵とベーコンの香ばしい匂いが立ちこめると、リリーは矢も盾もたまらなくなって、部屋とキッチンの境を行ったり来たりした。
 女がトレイに乗せた二枚の皿に、ベーコン・エッグとスイートロールをのせて運んでくると、リリーは飛びつくようにして、部屋の隅のテーブルに直行した。薄く切った五枚のベーコンは、いかにもうまそうに脂が浮いて、かりかりに焼けていた。二つ並んだ目玉焼きも半熟で、フォークの先で突き破ると、黄金色のどろっとした膿が、皿の表面にあふれ返った。薄く切ったトマトと、ちぎったレタス、新鮮なパセリがそえられたそこは、青物の山のようになっていた。
 女が冷蔵庫から取り出したミルクをグラスに注いで持って来ると、リリーはものも言わずに飲み干した。リリーが食事を堪能しているあいだ中、女は黙って壁の前に立ち、しみ芸術の鑑賞に余念がなかった。
 空腹が癒えると、リリーはため息をついた。「ふう! 世界ってまだまだ、捨てたもんじゃないわねえ!」
「なま言って。あなた、家族はいるの?」
「うん。まあね」
「うそ」
「本当よ」リリーはむっとした。「あなた、何の権利があって、そんなことを訊くわけ? 政府から派遣された民生委員なの?」
「もちろん、違うわ。何の権利があってと訊いたけど、あなたに、ただの食事と慰安をふるまった、心優しい接待者の権利でよ。あら、いやだ。わたしったら、自己紹介をしていなかったわ。ジェーンよ」
「あたしはリリー」
「それは、さっき聞いたわ。ハロー、リリー」
「ハロー、ジェーン」
「ハイ・リリー、ハイ・ロー!」
 リリーは目を丸くして、話題を変えた。「さっきの男の人、ベンとかって人も、食べてるの?」
「ええ、食べてるわ」
「あの人、よくここへ来るの?」リリーはパンのかけらで皿をぬぐい、隅の方に残った黄身をすくいとりながら、「この卵、おいひい」
「いいえ、いつもではないわ。ときたまよ」
 ジェーンはリリーの無作法に、見て見ぬふりをすると、
「あの人は知り合い。いわば、お馴染みさんね」
 ジェーンは、リリーの皿をキッチンへ運びながら、テーブルのそばの出しっ放しの椅子を、足で蹴って動かした。リリーも立ち上がり、片づけを手伝うべく、奥へ行った。
「あの人、もとは海兵隊員だったのよ」
 ジェーンはいやに古いブランドのクレンザーを使い、食器を洗い始めた。
「ベンはこの街で結婚して、奥さんと二人暮らしでね、その奥さんは小学校で英語の教師をしていたの。初めての子供も生まれる予定だった。奥さんが妊娠して五か月目、ベンに召集がかかり、兵隊として砂だらけの戦場へ行ったわ。半年ほどして帰ってみると、奥さんは学校の同僚だった男と関係ができていた。
 子供を出産した妻に離婚を申し立てられ、ベンは逆上して、妻と愛人を撃ち殺そうとしたわ。幸か不幸か弾はそれ、妻の車のボンネットを傷つけただけですんだの。ベンは逮捕され、軍事法廷にかけられた。妻と相手の男にも非があるとして、処罰は免れたものの、結局、軍を除隊し、離婚もしなくてはならなくなったわけ。
 仕事も家庭もなくすと、世の中は不景気で職もなく、武器の扱いと人を殺す以外には、これといって何の技術もないので、しばらくは街の目抜き通りにあるレストランで、給仕として働いていたけれど、家族を失ったショックで、ベンの精神は壊れてしまったのよ。間もなく麻薬に溺れてトラブルを起こし、そこも解雇されると、あとはお決まりの転落コース。麻薬中毒患者用の、市の無料更正施設を出られたのは、運が良かったけれど、それから彼には行くところがないの」
「悲しいお話ね。あ、ひょっとして、あなたの作ったお話?」
「いいえ、違いますよ。わたしは悲しいお話は大嫌い。うそ話をでっちあげるなら、もっと楽しいうそ話を作るわ。それはそうと、あなた本気で訊くけど、家はこの近くなのね?」
「はい、近くです」
「ちゃんと面倒を見てくれる人はいるのね?」
「はい、います。それが何か?」
「だったらいいの。立ち入ったことを訊いてごめんなさい」
 ジェーンは笑いながら首を振った。「もしも困ったことが起きたり、相談したいことがあるなら、いつでもここへ来て。わたしはジェーン・オースチンというの。嘘みたいだけど、本名よ」
 ジェーンは破顔一笑したが、リリーはまごついた。
 ワンテンポずれて、リリーは感謝した。「ありがとうございます、ジェーン・オースチン」
「どういたしまして。ところで、あなた、本は好きなの?」
「はい、とっても」
「どんな物を読むの?」
「主に漫画のたぐいを」
「それじゃあ駄目よね、本じゃないもの。あ、ごめんなさい。漫画でも、素敵なものはたくさんあるものね。『小さな孤児アニー』とか『タンタンの冒険』とか、『ココナッツ』とか」
 それを言うなら『ピーナッツ』でしょうと言いかけて、リリーは黙った。
「わたし、あなたくらいの年には、『小公女』とか『秘密の花園』とか『オズの魔法使い』を夢中になって読んだものよ。あなたくらいの年齢なら、フィクションと現実の区別はつくはず。この国には色々と面白い本が、山ほどあるのよ。今はみんな活字の本なんて、あんまり読まないみたいだけど、それって、とってももったいないことだわ」
「でも、作り話でしょ。読んでも時間の無駄だと思う」
「漫画だって作り話じゃない。試してみても、悪くはないんじゃないの?」
 うむを言わさずリリーは連れ出されると、廊下の隅にある薄暗い小部屋に連れ込まれた。
 女が壁のスイッチを手探りでつけると、奥の方にスチール製の棚が数組並んだほかは、隙間もないほどハードカバーやペーパーバック、辞典や年鑑、小説からパンフレットの類まで、さまざまな本がサイズ別に分類され、横向きに積み上げられた、倉庫のような室内が浮かび上がった。
 リリーが呆然としていると、ジェーン・オースチンが、
「どれでも好きなのをあげるわ。古くなって処分する本や、市民から寄贈された本なのよ」
 リリーが答えるのを待たずに、ジェーンは本の山に突進すると、書物のことなら自分の方が詳しいという人間に特有の、せっかちな傲慢さで、手当りしだいにピックアップしていった。リリーの目は子供向けの山よりも、近くにあってかさの低い、別の本の山に吸い寄せられていた。そこは全体的にくすんだ茶色や、古ぼけて変色した緑色、まったくのねずみ色で構成された、引退した野菜畑のような、心あたたまる色合いに染まり、小部屋の谷間でもあからさまに地味なブロックを形成していた。
 リリーは体を斜めにして (本が横に積まれていたからだが) 書名を読んでいった。リリーはその中から、『不動産抵当証券の罠と被害者救済の手引き』と題された本を抜き取った。
「この本、もらってもいいですか?」
 本の墓堀り人は髪をふり乱してふり返った。
 書名を見て女の目は見開かれたが、うなずいて、
「お気に召すままに」
「あっ、それってシェイクスピアの題名ですよね。わたし、シェイクスピアにはうるさいんですよ。ほら、シェイクスピアって、新聞やなんかによく引用されてるでしょう? 実際に読んだことはないんですけど」
「だったら、今日、読んでごらんなさいな」女は一冊の薄っぺらい本を突き出した。
 『チャールズ・ラムの子供のためのシェイクスピア物語』。
「この本はあなた向きね。〈図書館の天使〉(ライブラリー・エンジェル) のお導きよ、これって」
 リリーはどきっとした。「図書館の天使 (ライブラリー・エンジェル) って?」
「本にはね、この世界に生み出された時から、一冊ずつ守護天使がついているものなのよ。その本を本当に必要としている人のもとへ、届くようにと働きかけてくれるの」
「それが、〈図書館の天使〉(ライブラリー・エンジェル) ?」
「そうよ。今日、あなたがここへ来たのも、この中にあなたが必要としている本が、あるからかもしれないわ」
 ずいぶん都合のいい解釈だと思いながら、リリーは心の隅で、そういうものかしらねとつぶやいた。
《子供のための》という部分が引っかかったが、リリーは『シェイクスピア物語』を受け取った。青い装丁の裏表紙にある著者略歴を見ると、チャールズ・ラムは、東インド会社という貿易会社で書記をしながら、発作の末に母親を刺し殺した狂人の姉の面倒を見続け、一生を独身で過ごしたやもめ男ということだった。
 わお。
「おかしいわねえ。『オズのオズマ姫』や〈ナルニア国〉シリーズが一揃い、このあたりにあったと思ったけど。なんなら〈ふたごちゃん〉シリーズや〈ハリー・ポッター〉シリーズもあげるけど、読むだけ時間の無駄かもね」
「今日はこれだけでいいです。探したい本もあるし」
 女が散らばった本を山に戻していた時、ブロックの一部が崩れ、何冊かの蔵書といたんだパンフレットの束が床に放り出された。リリーの目がその中の一冊に吸い寄せられた。
「待って」
 ジェーンがパンフレットを、同類の紙屑と一緒にかき集めようとするのを、リリーが止めた。
「それを、その本を見せて」
「ええ? だって、これ、どこかの頭のおかしな人が書いた、ただの宗教パンフレットよ」
「いいから、見せてよ」
 ジェーンが肩をすくめて、パンフレットを突き出すと、異様に縦長の表紙には、表と裏とを見開きに使って、虹色に発光する水晶と、一人のお仕着せの、足首まで隠れるゆるやかな白い衣を着た少女が、崖の上でたたずんでいる絵が、何ともまずいタッチで描かれていた。タイトルはなく、小さすぎて読めない一連の文字と、『見よ (ロー)!』とだけ書かれた、太字の白いゴシック体のロゴがあるだけだった。
「これ、わたしにくれない? 読んでみたいの」
「駄目よ」
 ジェーンはにべもなく断わり、パンフレットを同じような狂信的紙屑の束と一緒に、背後の紙屑の塊 (スラッシュ・パイル) に投げ捨てた。
「こんな物、あなたのような発達段階の子供にとっては、百害あって一利もなしよ。頭のおかしな、田舎の《低い》大人たちが読めばいい代物よ」
 田舎の《低い》大人たちでなくても激怒しそうな言辞で締めくくり、汝、塵より生まれし物は塵に返るべし、ジェーンはそうつけ加えて、散らかった本の整理に没頭した。
「あのう、そろそろ戻りたいんですけど」
「あっ、そうね。ごめんなさい、無理に引き留めちゃって」
「いいんです。おかまいなく」
「あなた、何か読みに来たんでしょう? よかったら、探すの手伝ってあげるけどな」
 そうしてもらうと助かっちゃうなと、リリーは思った。正直言って、この広大な知識の殿堂とも言うべき建物に入って、目指す手がかりを見つけられるかどうか、ずっと迷っていた。
「あのう、ケッセルバッハという人について、調べたいんですけど」
「誰ですって?」
「ケッセルバッハ」
「何をした人なの?」
 リリーは首をかしげた。「科学者です」ふたたび首をかしげる。「考古学者だったかな? あれはアマチュアだっけ。専門は――何だったかな。何とかいう光線を発明したはずなんだけど」
「X線とか・・・レントゲンかしら?」
「ううん。オナイパ・レイ何とかっていうの」
「オナイパ・レイ何とか。見当もつかないわ。調べてあげる。来て」
 ジェーンはリリーの手を引いて小部屋を出、電気を消した。
 一階の司書たちの溜まり場である検索室に行くと、一台の端末に向かい単語を打ち込んでいたが、ようやく顔を輝かせて、リリーにディスプレイを向けた。
「これかしら?」
「オナイパ・レイヤール線の――あっ、発見者か――そうです、この人です」
「ケッセルバッハ、バーノン・J。物理学者ね。年鑑と伝記が出ているわ。評伝もいくつかある。評伝はあなたにはむつかしいかもね。どれを見る?」
「全部おねがいします」
「そうでしょうね。はい、こっちよ」
 ジェーンは端末を初期状態に戻すと、書きとめたメモを手に立ち上がった。リリーは感心したようにパソコンを眺めながら、自分も一台欲しいなと思った。
 ジェーンが書架のあいだを練り歩くと、問題の本のうち、あいにくと伝記は借りられていたが、年鑑の方は分厚いやつが数年分、ずらりと並んでいた。ジェーンは脚立を選んでよじ登ると、重い年鑑を何冊か抜き取って、慣れた手つきでめくっていたが、
「これかしらね。ああ、あったわ。マイクロ・フィルムのスプールや、デジタル・ニューズ・サービスの記事も見られるけど、どうする?」
「今日はこれだけでいいです。どうもありがとう」
 ジェーンはぎこちない足取りで、リリーが支えた脚立を下り、手近の閲覧用のデスクに本を置いた。
「はい。わたしは向こうのカウンターにいますから、いつでもご用があったら呼んでね」
「はい、どうもでした」
 ジェーンが立ち去ると、リリーは肩をすくめ、持たされた子供向けの本をデスクに置いて、年鑑の精読にいそしむべく、プラスチック製のスツールに腰掛けた。
 その年鑑は扱いにくく、とっつきにくい代物だった。ぎっしり詰まった八ポイント活字を、閉口するような思いで眺めながら、リリーは該当する〈ケ〉の項目を、覚悟を決めて読み始めた。

 ケッセルバッハ’バーノン・J 物理学者 (1955〜) ドイツ系オランダ人の父親とユダヤ人の母親のあいだに、オランダのロッテルダムに生まれる。カリフォルニア工科大学物理学教授 ベルリン大学名誉教授 プリンストン高等研究所終生名誉研究員 チューリッヒ大学員外教授 国際物理学会理事 1987年、アメリカ合衆国に帰化。オナイパ・レイヤール線の発見により、2007年ノーベル物理学賞受賞。
 かねてから理論上その存在が推定されていた、重力の発生する源である電磁重力線が、ケッセルバッハ教授を中心とするプリンストン高等研究所の研究グループにより発見されたのは、2006年のことであった。(以下、概略と発見の経緯)

 リリーは素っ気ない記述を読み進めながら、一昨日ニュージャージーの森の地下施設で見た、愛想のいい、愉快なコンピュータ画像の老人を思い出した。
 リリーが読んだのは数年前の年鑑だったため、「自宅火災のため焼死。家族係累なし」の記載が抜けている。ケッセルバッハが不慮の死を遂げたのは、この年鑑が発行されたあとのことらしい。いかにも専門家向けの、とりつくしまもない文章のどこにも、あの陽気でユーモラスな科学者の人柄を示す箇所はなかったし、この本のどこにも、彼がアマチュアの考古学者だということは書かれていなかった。
 それにアフリカの僻地で友人の考古学者の遺跡発掘に携わったことも、そこでの事故でその友人を亡くし、謎めいた人物につけ回されたことも。ましてや発見した女の子を、こっそりと船積みにして、アメリカに連れ帰ったこともだ。
 リリーは何者かの視線を感じて、ふり返った。
 仕立てのいいダークスーツのビジネスマン風の黒人男性と、カジュアル・セーターを着たにきび面の面長の白人青年、大柄な、手編み風の白いショールをまとった、太めの白人女性が、机に向かって熱心に読み耽っていた。
 リリーの目に、一瞬スーツの黒人の男の背中が揺れたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
 リリーは別の年鑑を引っぱり出し、めくってみたが、どの本にも書かれていたのは同じ記述だった。写真が一枚もないのが困りものだったが、知りたいことは、とりあえずわかった。いずれ近いうちに別の本も調べよう。
 リリーは年鑑を音を立てないように閉じて、伸びをした。苦労して脚立と机のあいだを何往復かして、年鑑を棚に戻すと、子供向けの本数冊と、『不動産抵当証券の罠と被害者救済の手引き』を手に、立ち上がった。
 お礼を言うため、さっきの司書を探したが、どこにも見当たらなかった。
 リリーがいなくなると、ダークスーツの男と、カジュアル・セーターの若者、太ったショールの女がふり返り、目配せした。三人は見てもいなかった本を閉じ、素早くスツールから立ち上がった。
「行こう」
 スーツの男が小声で言い、三人は歩き始めた。




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