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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第14回   14
                  14


 リリーは目を開いた。誰かに耳元で呼ばれた気がしたのだ。上半身を起こし、あたりに油断なく目を配る。
 あやしい気配は何一つない。だが、リリーは何者かの声を聞き、何者かの吐息さえ確かに感じた。
 それも恐ろしく身近に。
 リリーの真後ろか、どこかから。
 ふいにデジャ・ヴュを感じて、リリーはめまいを起こしかけた。大昔、こんな風に夜風の音を聞きながら、星を眺めたことがあった。途方もない大昔。あの頃は、星の配置も密度も、今とは違っていた。
 でも、そんなはずはないわよね。
 リリーはごろんと横になった。
 (図書館に行って、ケッセルバッハのことを調べなくちゃ。ケッセルバッハの綴りは・・・K・・・e・・・s・・・s・・・e・・・l・・・l・・・あれ、違ったかな?)
 あとはむにゃむにゃして、わからなくなった。








                15


 リリーが、暗いながらも温かい、静かな眠りの淵に沈んでいる頃、ルナチク市から南東に百八十七マイル離れた、とある高壮な邸宅の廊下を、陸軍のグリーンの礼装用軍服に身を包んだ、もう若くない白人の男が、右足を引きずるように歩いていた。
 男は吸音性の高いカーペットの回廊を直角に曲がり、屋敷の西翼に入り込んだ。
 ここへ来るのは何年ぶりだろう。
 男の両肩に輝く四つ星の徽章が〈大将〉の位を示し、銀星章や青銅星章、赤色武勲章、パープルハート勲章を始め、いくたの武功を示す略綬板が胸に飾られている。
 男が足を引きずるのはここ数年来のことだった。皆は見て見ぬふりをしていたが、男の足の障害は、軽いリュウマチ熱によるものだった。
 男は先の第三次朝鮮戦争の局地戦で、二人の実の息子を部下として失っていた。
 戦死した兵士たちと一緒に、星条旗に覆われた二つの棺が馬車に乗せられ、弔砲と葬送曲の鳴り響く中、儀杖兵に見送られ、アーリントン国立墓地の無名戦士の墓の前を通り過ぎる頃、地球の反対側では、男の指揮する極東駐留軍の三個師団の地上攻撃部隊が、平壌に住む独裁者の牙城に総攻撃を開始していた。
 航空母艦から飛び立った戦闘爆撃機の大編隊による空爆と、巡洋艦から正確無比に打ち込まれる無数の巡航ミサイルの固め撃ちの中、攻撃ヘリと戦車部隊の大進撃が敢行された。大量虐殺が起こり、投降した栄養失調の敵兵に銃火が浴びせられた。
 翌日、一個の国家が事実上消滅していた。
 男は非同盟諸国や中立国ばかりでなく、自国と同盟国のメディアからも非難された。男は“殺し屋ゴードン”とあだ名を奉られた。
 国防総省と国務省、および上院、下院の各軍事委員会小委員会では、国内外の世論を重視し、別個に調査の結果、男の作戦には何らの落度もないこと、過重攻撃も、自由と民主主義を信奉する同盟国の諸利益、特に合衆国の兵士の安全を優先するためにとった処置であったとの結論を下した。そして、男のふるった類い稀なる指揮能力と、断固とした作戦遂行の手腕を高く評価する声明を発表し、男を軍法会議にかけるべきという世論の非難を一蹴した。だがメディアの論調はあいかわらず手厳しく、男をヒトラー呼ばわりする政治コラムも見受けられた。
 “殺し屋”というニックネームを、自慢にこそすれ、悪い気はしないと、会見でインタビュアー相手に嘘ぶいた晩、男が自宅のがらんとした応接間の壁に掛けられた、金星勲章で縁どられた二人の息子の遺影の前で泣き崩れたのを知るのは、今では他界した男の妻――美しいブルネットと玄人はだしのフルートの才能、絶品のフランス風オムレツを作る腕前の持ち主だった――と、ジャマイカ出身の、感情の起伏のやけに乏しい中年の家政婦だけだった。
 男は日を置かず、陸軍司令部のCINC (司令官) の任を解かれ、一ヶ月ほど軍関係の精神療法施設で、極秘裡に治療を受けたあと、配置転換を願い出て受諾され、統合参謀本部付き専任将官となった。実質的には降格処分に等しかったが、解任されて二ヵ月、次の任務の拝命がなければ、自動的に退役になる規則を考えれば、マシと言えた。
 男が回廊を進んでいくと、曲がり角のところに、黒いジャケットに金筋の入った黒ズボン、黒い靴をはいた黒人の男が、イヤピースをはめ、壁に寄り添うように立っていた。
 ゴードンと目があうと、男は無線に何かしゃべった。
「いよう、マック。あいかわらず、いいケツをしてるじゃないか」
 男は一瞬吹き出しかけたが、屋敷の訪問客と私語を交してはいけないという規則に従って、ゴードンを無視した。
「まあいい、しっかりやれ」
 ゴードンはテーラード・スーツのその男が、新兵訓練キャンプでべそをかいていた頃のことを覚えていた。
 あれから二十年は経っている。
 壁に並んだ何枚かの、馴染みのある合金材のドアの前でためらったあと、ゴードンは奥の一枚に向かって進んだ。そこにも黒人のお仲間がいて、手持ちのおもちゃに話していた。ゴードンは緊張した面持ちで咳払いし、入り口の一つに向かって進んだ。ドアが電子制御で音もなく開いた。さして広くもないが狭いとも言えない室内の連中が、いっせいにふり返る。気まずい沈黙が立ちこめた。
 ホワイトハウスの奥の院に仕える従僕たち――広報担当や新聞担当、面会係担当の秘書たちだった。
 地味で目立たないが、いい服装をしている。
 ゴードンはこの手の連中が大嫌いだった。にも関わらず、こういうタイプの人間の思惑一つで、自分のキャリアも、人生もあっさり葬り去られることを熟知していた。
 十年以上も前、海外勤務で夫が留守のあいだに、部下である将校の妻たちに手を出して、不倫で告発された三つ星 (中将) がいた。行く末は陸軍参謀総長はおろか、統合参謀本部議長も夢ではないと噂された智謀型のやり手で、ゴードンとはそりがあわなかったが、軍内部ではよくある不祥事で、妻たちの側にも落度があった。ゴードンと将軍連は、老いたドンファン中将に因果を含め、すみやかに退役させることで、ことを内々に処理するつもりでいた。だが、背広組に露見した。
 このただの職場不倫は、《軍上層部の腐敗》というレッテルを貼られて、世間に提出された。前途ある有能な将校たちが傷つき、合衆国の未来をになうべき子供たちが、終生癒されることのない傷を心に負った。いくつもの家庭が崩壊し、怒号と謝罪を乞う叫びが飛び交い、涙が嵐の夜の雹のように流され、軍の指揮は著しく低下した。
 最後に、メディアで不倫を暴露された妻たちの一人が、崖の上から投身自殺した。
 ゴードンは自殺した妻と、その夫のことをよく知っていた。アリスは子供の頃から伏し目がちの、賢くて美しい少女だった。ゴードンが専任将校として指揮をとった中隊の、部下だった男の一粒種で、その部下は国連の平和維持軍の一翼として駆り出されたエチオピアの片田舎で、どうということもないパトロール任務の最中、地元の反政府ゲリラの襲撃を受け、手榴弾で後頭部を吹き飛ばされて即死した。
 未亡人とハイスクールに入学したばかりの美しい遺児に、自分はできる限りの援助をするとゴードンは申し出た。アリスが大学に進学し、卒業も間近になると、ゴードンは特別教官として教鞭をとる際、特に目をかけていた陸軍士官学校の教え子の一人に、アリスを紹介した。くだんの候補生は、陸軍士官学校主催の在校生と卒業生を対象にしたダンスパーティーにアリスを同伴し、二人の関係はエイブラムス戦車も顔負けのスピードで進むと、半年後にゴールインした。
 ゴードンは二人の結婚式に招待された日のことを、今でもよく覚えていた。二人の親族、友人たちが集まった、内輪の、簡素だが親しみのこもった、心に残る結婚式だった。
 ゴードンは亡き戦友に対する義務を果たし、ようやく肩の荷を下ろせた気がした。酔った勢いで二人に男の子が生まれたら、亡くなった戦友の名前――とりもなおさずアリスの父親の名だった――をつけることを、新婚夫婦に口頭で誓わせた。
 だが息子も娘も生まれず、次に呼ばれた時が、アリスの葬儀だった。
 それはゴードンが実の息子たちを戦死させる前の出来事だったが、この世には戦場で味わうよりも辛い体験があることを、ゴードンに骨身に染みて感じさせた。葬儀には大勢の取材陣が押し寄せ、醜聞の腐肉あさりに精を出していた。
《緋文字》のヒロインの悲しい葬儀に出た帰り、自慢のコレクションからコルト・ガバメントを取り出したゴードンは、弾倉に三発だけ銃弾を込めると、退役した元の同僚を自宅に訪ねた。事前に連絡をとらなかったので、相手はマスメディアの追及を逃れるため、海外に雲隠れしていて留守だった。
 もしいたら、ためらいなく射殺していたろう。そして、メディアでことをおおやけにした背広組の連中にも、素性がわかり次第、弾丸を撃ち込んだはずだ。そして、自分もいさぎよく命を断つ。いずれの機会も永久に訪れなかった。かれは生き残ってしまった。
 室内の気まずい沈黙が破れると、手前にいた、いかにもハーバードを出て直行しましたという感じの、東部インテリ風の背広服の男と、デスクについた水着モデルのような体型の、白人の女性秘書とが素早く目配せした。
「今晩わ、将軍」
 男が如才なく笑みを浮かべて、手を差し出した。
 ゴードンは鷹揚にうなずいただけだった。
 丸い金縁眼鏡の、ずんぐりした体型の黒人の女性秘書――実際にこの部屋を統括していたのは、このチーフ秘書だった――が、手にしたハードコピーを羽根ばたきのようにひらひらさせて、左隣のドアから現われた。
 ゴードンの姿に目を丸くすると、
「あら、おみえになったんですのね、将軍」
「今、来たところだよ。遅くなってすまない。着替えるのに、手間取ってしまった」
「ボスがお待ちですよ」
 チーフ秘書は、そうすればゴードンの姿がワックスでぬぐった染みのように消えるとでも思っているのか、眼鏡の位置を何度もずらした。「場所はおわかりでしょ?」
「あいにくと、まだそこまでは老いぼれておらんのでね」
 ゴードンは胸のポケットに手を伸ばした。
 そこにしまってあるはずの葉巻を探したが、何も見つからない。
 黒人の女性秘書がとがめるようなまなざしで、ゴードンを睨みつけた。ゴードンは軍隊生活の長さからくる、喫煙という悪癖を克服できないでいた。
 チーフ秘書は黙って手を伸ばし、奥の入り口を指し示した。
「ありがとう。自分の進むべき方向くらい、わきまえているさ。言っておくがな、わしはおまえさんが生まれるずっと以前から、二本の足で立って歩いていたんだぞ」
「わたしも直立歩行猿人のことは、学校で教わりましたよ。だからといって、あなたがボスとの約束に遅れていい言い訳にはならないわ。そうでしょ?」
 チーフ秘書はたった今出て来たドアを開け、中をのぞいた。誰かに目で合図を送ったが、
「どうぞ、入って下さい。ボスがお待ちです。それからテーブルにつく前に、ちゃんと手を洗うんですよ」
 いたずらをとがめる母親のように、眼鏡の奥で笑う。
「すまんな。ありがとう」ゴードンはうなずいて、秘書の傍らを通り抜けようとした。
「その二本の足に、心から同情するわ」チーフ秘書は聞こえよがしにつぶやいた。
 一本取られたな、とゴードンは苦笑した。
 背後でドアが閉まる。
 ホワイトハウスの、ウエスト・オフィス・ビルの角にある大統領執務室は、ゴードンが来るたびに感じることだが、思いのほか狭く、国際政治の一流中の一流の舞台としては、物足りなさを感じさせた。ニュース映像でこの部屋の主が体現する、巨大な権力にまつわる誇大妄想を抱いて訪れる者は、決まって失望するのが常だとも聞いていた。
 実際この部屋の価値は、厳選された家具調度でも、洗練された室内装飾にあるのでもなく (それだってかなりの値打ち物だったが)、空間が与える、厳かな緊張感でもなかった。
 ここはキリストやマホメットや釈迦を除くと、人類で最も影響力を持つ人間の部屋だった。
 考えようによっては、それでも、キリストが裏切り者を含む十二人の弟子と最後の晩餐をとった、あのイスラエルの宿屋の二階とは、比べものにならなかった。聖書の中で、キリストは一度死んだラザロという男に生命を与えたが、他人の生命に関してこの部屋のあるじに出来るのは、奪うことだけだった。
 絨緞の上を、二人のスーツの男が這い回っていた。ゴードンは一瞬、二人が腕立て伏せをしている最中ではないかと勘繰った。
 栗色の髪の、若くて小柄な方がゴードンに気づいて、気まずそうに見上げた。「やあ、エライジャ。ドアからのぞき込んだ彼女を見たとたん、目玉がひっくり返ってしまって、コンタクトレンズを落としてしまったんだ」
「やれやれ。しょうがありませんな」
 ゴードンは吹き出したくなるのをこらえると、自分も床に這いつくばった。リュウマチの足が軋みを上げたが、歯を噛みしめて、痛みをこらえる。
 遠い昔、ゴードンがなりたての将校だった頃にも、こんなことがあったような気がした。この子が――まだ短パンが似合う少年だった――高価なコンタクトレンズを落としたと言って、家族中が大騒ぎした記憶がある。
 ゴードンも捜索に協力したが、見つけたのは、少年の三人いる姉たちの一人だった。少年は、父親を除くと女ばかりの家族に甘やかされた、一家のアイドル的存在だった。
「ほら、ありましたよ」
 もう一人の男――こちらは半ズボン姿の少年時代など想像もつかない――が床から立ち上がり、人さし指を差し伸ばした。「どうぞ、なくさないでください」
「ありがとう、ドクターK」
 小柄な男は礼を言って、見えない何かを受け取ると、卓上のウェットティッシュを抜き取り、二人に背を向けた。
 発見者とゴードンの二人は、世界中でコンタクトレンズ愛好者が執り行う秘密の儀式に、厳粛な沈黙をもって臨んだ。
 小柄な男が視力を回復してふり返ると、ゴードンが訊いた。
「一体なにごとです、大統領閣下? まさか、この私にコンタクトレンズのありかを探させるため、呼んだんじゃありますまいな?」
 小柄で見栄っ張りの《元四つ目野郎》のコンタクトレンズ愛好者、現アメリカ合衆国大統領ジョナサン・クレイバーンは、手を振って歴戦の勇士を黙らせた。
「まあ、待ちたまえ。きみたち、おたがいに紹介は無用だろうね」
 大統領はレンズの発見者を差し示したが、その男がここにいるのは、さして意外なことではなかった。
「ゴードン将軍、吉報を待っていたよ」
 公立高校の物理の教師がするような、銀の厚手のメタルフレームの眼鏡をかけた、国家安全保障担当補佐官は、ゴードンに右手を差し出した。
「久しぶりだね。あれから何年になるかね」
「光陰、矢の如しですな。お目にかかれて光栄――とにかく久しぶりです。はて、吉報とは?」
「きみが原隊に復帰してくれて、嬉しいという意味だよ」
 人なつこい、陽気なタカ派として知られるこの補佐官ポール・カルゲロプロスは、ホテルのレストランで調理人をしていたギリシャ人の父親と、その店でウェイトレスをしていたフランス人の母親の血を引く、移民二世だった。
 ゴードンが朝鮮半島で人肉ミンチの製造にいそしんだことを糾弾された際、査問にあたった上下両院合同特別軍事委員会の非公開の聴聞会の席で、軍事関係のアドバイザーを勤めた顧問で、ゴードンは聴聞会で彼が証言した日のことを、忘れてはいなかった。
 当時、上院軍事委員会小委員会議長で、今はバージニア州リッチモンドの高級墓地の一角に眠る、アラバマ州選出のさる大物上院議員に、
「あなたは顧問として、かれのとった軍事作戦をどう評価しますか?」
 と訊かれたカルゲロプロスは、軽く咳払いをして立ち上がり、合同委員会の構成メンバーと、公聴する議員たち、いずれはマスメディアによって、この会のあらましを知るであろう、数億の潜在的聴衆を前にして、
「わたしは専門家です」
 と、前置きをしてから、
「わたしのこれまで積み上げてきた、この分野での浅くない経験と知識とをかんがみるに、ゴードン将軍のとった処置は、あらゆる専門的、総合的見地から判断して、人類のなし遂げた、あまねく知られる歴史上の数々の軍事的功績や偉業、数々の決定、研鑽され蓄積された人類的規模での、戦略的、戦術的経験に比して、いささかもその価値を減じるものでも、損なうものでもありません。言いかえるならば」
 と、ここで未来の安全保障担当補佐官は、メタルフレームの眼鏡をはずしてハンカチで拭い、効果満点の沈黙を置いたあと、テーブルの向こうの、一段高い壇上にさらしものにされた、軍服姿の老将軍に向かい、このうえもなく温かい、同情的な笑みをたたえて言った。
「わたしは心からの敬意とともに言いたい。あなたと同じこの国に生まれたことを、誇りに思いますと」
 厳粛とも思える沈黙が立ち込め、椅子を埋めた議員たちのあいだから、まばらな拍手が起こった。
 拍手の音は、時を置かずして大きくなると、議場全体にうねるように広がった。
 拍手が消えるのを待って、未来の補佐官は目頭についた涙を拭うふりをし――かれは自分の演説に、自分でも感動していた――ゆっくりとおもむろに眼鏡を掛け直した。
 心情を吐露した愛国者の一面が消え、感情に動かされない、冷徹なプロフェッショナルの、威厳に満ちた表情を表わしたつもりだった。
「優秀で模範的な将軍は、卵を割ることができます」
 会議場は、不審と好奇心の混ざりあった、深い静寂に包まれた。
「『卵を割らなければ、オムレツは出来ない』とは、昔から決断を要する際に、決まって言われることであります。犠牲をともなわなければ、収穫もありえない。しかしながら、割れた卵を戻すことは、神ならぬ人間の身には不可能であります。我々は、かくも偉大な、わが国が誇りとも模範ともすべき英雄に、卵を割ったばかりか、それを元に戻すことをも求めている。それは公平ではありません。以上です」
 カルゲロプロスは、委員長席に陣取った白髪の大物議員に、同意を求めるようにうなずいたが、議長も、うっかりと言うにはあまりにも深く、あいづちを打ってしまった。
「他に、つけ加えることはありませんか? 我々の参考になる、専門家としての付帯意見は?」
「何もありません」
 軍事委員会顧問は着席する。
 椅子の脚がこすれて、ワシントン記念塔のてっぺんまで聞こえた。
「貴重な意見をどうもありがとう。審議を続けましょう」
 会議は予定通り、いつ果てるともなく、だらだらと続けられたが、委員会レベルではすでに結論が出ていた。
「将軍、卵を割る」
「上院軍事顧問の歴史的証言、『英雄は卵を割りさえすればよい』」
 翌日のテレビや新聞の各紙面は、スクープとして、聴聞会でのカルゲロプロスの証言を大きく取り扱った。
 中には、
「『割るべきか、割らざるべきか、それが問題だ』」
 と、上院軍事顧問を〈オムレット公爵〉と呼んでからかい、聴聞会から締め出された恨みを晴らす新聞も見受けられた。
 非公開の議事内容をリークした者がいたのだが、それはカルゲロプロス本人の仕業だった。
「遅くに呼び出してすまなかったね、将軍」大統領が詫びた。「何か飲み物はどうかね?」
「結構です。夜中過ぎは、何も胃袋に入れないことにしておりますので。もう年ですからな」
「賢明な心がけだね。わたしも見習わなくちゃ」
 ぽっちゃりした体型のカルゲロプロス補佐官が、調子を合わせた。
「よろしければ、葉巻をいただけますかな? あわてて出て来て、持ってくるのを忘れまして」
 大統領は、補佐官と顔を見合わせた。
「あいにくと置いてないんだよ。部屋が臭くなるとかで、東翼の議会がうるさいものでね」
《東翼》というのは、ファーストレディーが生活し、出入りに利用する棟のことだった。
 いっとき沈黙がおりた。
「実はつい三時間ほど前まで、わたしとポールは《川向こう》にいたんだよ」
 大統領がやおら切り出した。
「それはそれは。墓荒しにはもってこいの晩ですからな」ゴードンはにやりとした。
「まさか。われわれはついさっきまで、ペンタゴンにいたんだよ」カルゲロプロスが声を上げて笑った。
「国家安全保障会議があってね」
 大統領は、隣の花壇にアイリスが咲いてねと言うような、なにげない調子で言った。
 ゴードンの右の眉がつり上がった。
 補佐官は気をきかせて、サイドボードの棚から、オールド・ターキーの九十八年物のボトルと、三人分のカクテルグラスを取り出し、チェッカー用のテーブルの上で飲み物を作り始めた。大統領がわざとらしい咳払いをしたので、将軍は館のあるじに注意を戻した。
「例のメラニスタン共和国の内乱の一件ですな」ゴードンは考え深げにうなずいた。「わたしも夕べ、ニュースで見ておりました。あそこは、あの地域で唯一の親米国家ですからな。では、いよいよ介入するんですな」
「いいや、まだだよ。今夜、来てもらったのは、まったく別のことなんだよ」
 今度は、ゴードンの左の眉がつり上がった。
 カルゲロプロスがカクテルグラスを差し出すと、ゴードンは物も言わずにグラスを受け取り、スコッチ・オールド・ファッションドを、一息に飲み干した。
「ありがとうございます、博士」
 これで覚悟は決まった。
 夜中過ぎに大統領から電話で呼び出された時から、悪い予感はあった。
 いい知らせなら、直属の上司である統合参謀本部議長を通じてあるはずだ。
 いよいよ、俺もお払い箱にされるわけか。
 ゴードンに礼を言われたカルゲロプロスは、目を丸くしてグラス見つめると、大統領にも一つ差し出した。大統領が断わると、カルゲロプロスはグラスを持ちかえ、二人分のカクテルをちびちびとすすり始めた。
 ゴードンは合衆国最高司令官をふり返った。「腹は出来ましたぞ。何を聞いても驚かないよう、決心もつきました。ご用件は何でしょう?」
 執務デスクの端に腰掛けた大統領は、困ったような顔で補佐官を盗み見た。デスクの上の、妻と家族の肖像写真の入った写真立てをいじくり始める。
「まさか、こんな時間にわたしをベッドから叩き起こして、何分でここに駆けつけるか、二人で賭けをしていたと言うんじゃありますまいな?」
「いいや、そんなことではないよ、将軍」大統領は言って、また上目遣いに補佐官を盗み見た。
 ゴードンはそのまなざしに見覚えがあった。
 ずっと昔、ゴードンが膝にのせて大統領をあやした頃の、やんちゃできかんきな、要領のいい少年の目つきだった。
 補佐官が知らんぷりをして背を向けると、大統領は咳払いした。
 補佐官が口笛を吹き始めると、大統領は二度咳払いをして、補佐官の背中に写真立てをぶつけた。
「殺し屋だ! 撃たれた!」
 補佐官は倒れ、くすくすと笑い出した。
 ゴードンは写真立てを拾いに行くと、苦笑しながらデスクの上に戻した。
 まったく、いくつになってもいたずら盛りの、餓鬼みたいな連中だな。
「わたしから説明しよう」根負けしたカルゲロプロスが、ゴードンに向き直った。
「きみもニュースを見ているなら気づいているだろう、将軍、ここ数ヵ月のあいだ巷の話題になっている、〈天使〉と呼ばれる物体のことを?」
 ゴードンの顔に不審の色が浮かんだ。
「最初から説明してあげたまえ、ポール。労を惜しんではいけないよ」
「今夜の――いや、もう夕べのことになるが――国家安全保障会議の議題は、いわゆる、その〈天使〉と呼ばれる物体のことだったんだよ」
 ゴードンの両方の眉が吊り上がった。
 補佐官は会議の発端となったトゥモローでの赤ん坊救出事件と、会議の結論に至るあらましを、順序立ててゴードンに聞かせた。話のあいだ中、ゴードンの灰色の眉が、ダウジョーンズの平均株価指数のように、上がったり下がったりした。
 最後に大統領が言った。「どうだろう、あなたが引き受けてはくれないだろうか? これは合衆国大統領として言っているんじゃないんだ。昔からのあなたの友人として、個人的に頼んでいるのだが」
 ゴードンはしばらく考えていたが、やおらにんまりした。「ご用命とあらば、いやも応もありませんな。やりましょう」
 大統領は補佐官にウインクした。「言った通りだろう、彼はたいしたタマだって」
「まさに軍人の鑑ですな」
「作戦全体を示すコードネームは、《かごの鳥作戦》だ。簡単明瞭だろう?」
 大統領は将軍と補佐官に、等分に笑みを送った。
「ここにペンタゴンが作成した命令書がある。この作戦に関しては、陸海空軍と海兵隊、沿岸警備隊、民兵団が必要に応じて、あらゆる処置を講じるよう、とくに厳重に指示してある。きみがオーケーし次第、わたしがここでサインをするつもりでいたんだよ」
「わたしが『ノー』という可能性は、考慮に入れられなかったわけですかな」
 大統領は恥ずかしそうにうつむいた。「おお、エライジャ。わたしはこれでも、きみという人間を、自分の骨や肉のように知っているつもりだよ。わたしが昔からきみの存在を、どんなにありがたく、頼りに思っているかは、とても言葉では言い表わせないよ」
 ゴードンは感動したが、顔には出さなかった。
「ご信頼いただけて光栄です。ありがとうございます、大統領閣下」
 大統領は執務デスクに置かれたペーパーウエイトの下から、書類を一枚はさんで取り上げると、万年筆でサインをした。
「賽は投げられた。当たって砕けろだ」
「はっ。ご期待にそえるよう、全力で努力します」




                                (第一部・了)



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