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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第10回   10
               10


 リリーはロジャー・ベリンスキーを見た瞬間、緊張が音を立てて、溶けていく気がした。
 いかに孤独だったか身にしみて感じたし、一人ぼっちではないという実感を、こんなに味わったこともなかった。
 リリーは夕べは《隠れ家》には戻らず、一晩中、街中をさまよい、一睡もできなかった。室内にいるのが恐ろしかったし、目を閉じると黒衣の老人の姿が浮かび上がるようで、眠ることなど考えもできなかった。
 明るくなってからも、家に帰るのは――《隠れ家》にせよ、ケッセルバッハの《秘密基地》の方にせよ――論外だったので、リリーはお昼近くまで市内をほっつき歩き、午後をかなり過ぎてから、公衆電話を使い、市警察本部のロジャー・ベリンスキー警部を呼び出したのだった。
 リリーが教えられた番号を打ち込むと、受話器の向こうから、眠そうなベリンスキーの声が聞こえた。
「はい、よろず殺人請負業です。ご用件は何でしょう?」
「ロジャー!」
「リリーかい? どこにいるんだね?」
 気がつくとリリーは興奮しながら、ターミナル駅の広場でロジャーと合う約束をして、受話器を戻していた。
 三十分はのんびりと、いらいらするほど、のんびりと過ぎていった。
 広場の一角からベリンスキーの長身の姿が来るのに気づくと、リリーはベンチを飛び出した。
「どうしたんだい。きみが電話をくれるなんて、珍しいこともあるもんだ。雪が降らなきゃいいが」
「あなたに会いたくなったものでね。学校の宿題で『わたしの祖父』という作文の課題が出たものでね。わたし、おじいさんがどんな顔をしていたか、忘れてしまったものでね」
「きみがわたしに隠れて学校に通うほど、向学心にあふれていたとは知らなかった。良いことを書いてもらう見返りに、アイスクリームでもごちそうしようかね」
「それって、買収になりゃしない? 警官としてはあるまじろな行為ね」
「『あるまじき行為』だろう?」
 二人は顔を見合わせて笑った。広場を出てアーケードの方角へ歩き始める。ベリンスキーはリリーを見下ろした。
「昨日、何度か電話したけど、出なかったね。《工場》にも寄ったけど、留守だったようだし。出かけてたのかい?」
《工場》というのは、リリーのすみかのことだった。リリーはベリンスキーから携帯電話を渡されていたが、邪魔になるので、ふだんは持ち歩かない主義だった。
「用事があったのよ。変わったことはなかった?」
「別に。ベリンダもわたしも、いつも通りさ」
「そうじゃなくて、わたしの《隠れ家》の方よ」
「そう言えば、ずいぶん背が伸びて、胴周りも太くなっていたな。『わたしを食べて』と書いてあるケーキでも食べたかな」
「ロジャー」
「いつもと同じだったよ。変わっていないといけないのかね?」
「そんなこと、ありっこないけどさ。それよか、ベリンダのかげんはどう? 足は良くなっているの?」
「まあまあさ。足の方は良くもなし、悪くもなしだ」
「ごめんなさい。つまらないことを、訊いちゃったわね」
「とんでもない。今日はいやに人通りが多いじゃないか? ああ! 聖パトリックのパレードがあるんだ」
「本当?」
「嘘を言ってどうする? 交通課の連中が朝からはりきっていたけど、すっかり忘れていたよ。見に行くかい?」
「もちよ。その前にアイスクリーム・ショップに寄るのをお忘れなくね」
「わかっておりますよ、お姫さま」
 リリーの顔が恐怖にゆがんだ。
「どうした、幽霊でも見たような顔をして?」
「だって――あなたが――ううん、そんな変なことを言うのはやめて!」
「『ローマの休日』のグレゴリー・ペックのまねをしただけじゃないか。きみはオードリー・ヘップバーンのあの映画が好きだと、いつも言ってただろう?」
「そんなこと言わないわ! 二度とわたしのことを、『お姫さま』なんて呼ばないでよ!」
「わかりましたよ、わからずやのお姫さま」
 リリーはベリンスキーの向こう脛を蹴飛ばしたが、力が入りすぎたらしい。
 ベリンスキーがうずくまり、道行く人が手を貸して立たせてくれた。
 二人はアイスクリーム・ショップに行き、買ったアイスクリームをなめながら、人通りの多い道をそぞろ歩いた。
 かたわらのリリーを観察すると、リリーの顔つきは自信たっぷりのいつもの表情とはうって変わって、おどおどしていた。そして、ベリンスキーが見つめると、リリーは視線を合わさないよう、目をそらすのだった。
 二人は群衆にまじって、パレードを見物した。
 緑の帽子に、緑の風船。
 緑のリボン。
 行き来する中にも、緑のジャケットや、緑のスカートを身につけた人々が目立つ。
 緑に埋めつくされた通りを、三ッ葉のクローバーを胸にあしらったガールスカウトの一団が行進していくと、リリーは先頭の少女をながめて、吹き出しそうになった。
 膝まで丈のあるスカートといい、植物模様の飾りをあしらった胸あて風胴着といい、ぴかぴか光るエナメルのブーツといい、リリーの変装用コスチュームにそっくりだ。リリーの胴着の胸模様は、キノコを思わせる、風変わりなデザインだったけれど。
 リリーの背丈の半分ほどもない女の子が、一抱えもある三ッ葉のクローバーを手に近づいて来ると、
「聖パトリック祭おめでとう」
 と、リリーとベリンスキーに、一束ずつ差し出した。
 リリーはお礼を言って、受け取った。女の子は群衆の中をどこかへ行ってしまった。リリーは後ろ姿を目で追いながら、胸がひどく高鳴るのを覚えた。
「リリー、家へ遊びに来ないか? ベリンダにはきみのことを、ある事件で知り合いになった、孤児だと話すよ」
 リリーが驚いて見上げると、ベリンスキーは真顔になって、
「子供が一人ぼっちで、あんなさびれた場所で生活しているなんて、感心したことではないんだよ」
「どうしようかな」リリーは考えていた。「うん、一度だけなら行ってもいいわ」
「本当かい? オーケーするとは思わなかったよ。いやに素直だね。冗談はなしだぞ」
「冗談なんて言わないわ。わたし、いつだって素直な、いい子よ。ベリンダに会いたくなっちゃったの」リリーはパレードに目を戻し、妖精の女王に激しく手を振った。
「そうかい。会えばきっと好きになるよ。二人は親友になれると思うよ」ベリンスキーが群衆の歓呼に負けないように叫んだ。「善は急げだ。さっそく今日にも、夕食を食べに来なさい」
「そんなに急に? ベリンダが困らない?」
「困るもんか。なんだったらすぐに電話して、彼女に知らせようじゃないか?」
 ベリンスキーがその場で携帯電話をかけると、相手が出た。
 リリーはバトンガールの行列が過ぎるのを、黙って見送っていた。
 ベリンスキーが電話を切った。「夕食は今夜六時に。ベリンダがきみによろしくってさ」
「ベリンダって、どんな人?」
「完璧なもてなし上手さ。完璧な母親にもなったろう、子供が生まれていればね」ベリンスキーは咳払いをした。「ところで、わたしはきみを養女として、わが家へ迎え入れてもいいと思っているんだけどな」
「わたし、急に手を洗いに行きたくなっちゃった。待っててくれる?」
 ベリンスキーがうなずくと、リリーは群衆のあいだを縫って、手近のデパートに入り、レディース用のトイレを探し当て、中に入って鏡に自分を映すと、ため息をついた。
「養女! このわたしを養女にですって! びっくりトカゲ (リーピン・リザーズ)!」
 すぐそばにいた年配のショッピングバッグ・レディーが、気味悪そうにリリーを見ながら姿を消すと、リリーはひとりごちた。
「養女だなんて、無理やり誘拐されるより、百万倍も悪いわよ。ベリンスキー警部ったら!」
 それから個室に入って用を足し、呼吸を整えて外に出た。
 かたわらを見やると、フロアの一角に人溜まりができていた。高価な服で着飾ったり、着の身着のままの男女十数名が、壁ぎわの一箇所に固まって、何かを見上げて釘づけになっている。新しい形のディスプレイかしらとリリーが近づくと、そうではなかった。
 壁の真ん中やや上方に、パネル式のテレビ・モニターが埋め込みになっていて、画面に白人の男性キャスターが映っていた。“スペンス&ジャニスのデジタル・ニューズ・ネット”のタイトルで知られた、ケーブルテレビの人気番組だ。浅黒い顔に、歯並びがまぶしい、くだけた司会ぶりが人気だったが、リリーの大嫌いなキャスターだった。今は眉を寄せ、作ったような憂いの表情を浮かべ、視聴者に話しかけている。
「何かあったの?」
 リリーは近くにいたパーカー姿の、のっぽのアフリカ系の青年に話しかけた。
 青年は声の主が見つからないので、きょろきょろしていたが、ようやくリリーが目に入ると、
「ああ、大変なんだよ。赤ん坊が縦穴に落ちたのさ」
「縦穴じゃない。排水溝だろ」隣にいたブルーのシャツの白人ビジネスマンが言い、青年と一悶着あった。
 二人はようやく、落ちたのは縦穴式排水溝の中で、意見が一致した。母親が目を離した隙に、赤ん坊が排水口から、地下の下水溝に落ち込んだらしい。
「どうして助けないの? 排水口の蓋をこじ開けて、中へ入ればいいだけじゃないの」
 それに対して二人の臨時コメンテーターが何か言いかけた時、画面に粗末な家々が立ち並ぶ、田舎町の一画が映った。レスキュー隊の隊員たちが右往左往し、進入禁止の黄色いテープの前で、警官たちがたむろしている。
 主婦層で構成された住人の中に、ひときわ泣き崩れているスカーフ姿のアラブ系の母親の姿があった。ぴっちりした制服に、豊満な肉体を押し込んだ、アフリカ系の婦人警官が母親をとりなし、必死に落ち着かせようとしていた。見るからに高価そうなコートを着た、黄色い髪の白人の女性リポーターが、耳にはめたイヤホンの位置をずらしながら、手にしたマイクロホンで、スタジオに呼びかけている。
「ジャニス、ジャニス。聞こえるかい、ジャニス? こちら、スタジオのスペンスだ。ハロー、ジャニス。ジャニス」
 スタジオの伊達男がまじめな顔で呼びかけている。通信が行き違いになっているらしく、間の抜けた呼びあいがしばし続いた。
「ええ、聞こえるわ、スペンス。何かしら?」ようやくつながったらしく、ずれたタイミングで、ジャニスが答える。「こちら現場です」
「救出活動はどうなっているだろう? 視聴者は一刻も早く知りたがっていると思うけどな。あれから多少は進展があったんだろうか?」
「いいえ、ないわ。掘削用の起重機や大型パワーショベルまでが出動したんだけど、路盤がもろくて、現場に乗り込むまでには、至っていないの」
「レスキュー隊の指揮者にインタビューはとれるかな? 何が行われているか、直接訊いてくれないか?」
「オーケー。わかったわ。待っててね」
 ジャニスが背中をひるがえして、画面から歩み去った。寸刻を置かず、カメラが後を追う。
 ジャニスは“美人”と呼ばれるには上の前歯がいささか出過ぎた顔で、あたりを見まわしていたが、レスキュー隊の隊員たちに近づくと、中の一人にマイクを突きつけた。
「隊長、オメガTVの“スペンス&ジャニスのデジタル・ニューズ・ネット”ですが、赤ん坊の救出活動の現状について、何か聞かせて下さい。救助はどこまで進んでいますか?」
 大柄な体格をして、口髭をきれいに刈りそろえた白人の隊長は、一瞬露骨に顔をしかめたが、胸をそらして息を吸うと、緊張した面持ちでうなずいた。
「ええ。ただ今、地下の排水溝にパイプを通して、一定量の酸素を送っています。これ以上、水の量が増えないよう、郡の水道局と連絡をとって、二マイルほど離れた給水ポイントで、排水の流出も調節してもらっています。また、排水溝の中の温度が低下しているので、臨時のヒーターも敷設して、暖かい空気も送り込んでいます」
「隊員を潜らせないんですか? 間もなく日が暮れるでしょう? 明るいうちに暗渠に隊員を送り込んで、助け出した方が、早いんじゃないでしょうか?」
 赤ら顔の隊長はうんざりした表情を見せたが、すぐに気を取り直すと、《信頼に値する男の中の男》の演技を続けた。「先ほども話したように、道路の舗装工事がずさんなため、救助車輌が通行できないのです。少しでも入ろうとすると、アスファルトが陥没して、排水溝ごと押しつぶす危険があるもので。目下、郡の住宅局と交通局に連絡をとり、道路敷設時の設計図を取り寄せるよう、手配しているところです」
 隊長は一呼吸おくと、ドラマチックな効果を高めるように声を低めた。「実は、地下に落ちた赤ん坊の泣き声が、先ほどから聞こえなくなってしまって」
「それは、赤ちゃんが流されてしまったということですか?」
「わかりません。流されてしまったのかもしれないし、衰弱して声が出なくなっているだけかもしれない。あるいは探知センサーか、地下に押し込んだエコー・マイクロホンの調子が、まずいだけかも――」
 その時、画面の外から誰かの呼ぶ声が聞こえ、隊長がそれに対してうなずいた。
「失礼、もう行かないと」
「ありがとうございました」
 隊長が立ち去るところを思い入れたっぷりに追いながら、抑揚のないジャニスの声が締めくくった。「生後八ヵ月になる女の赤ちゃんは、日の当たらない、凍てついた排水溝の中に横たわり、いつ来るとも知れぬ救助の手を待っているのです。わたしたちも、彼女が暖かい母親の腕の中へと戻れる瞬間を、待ちたいと思います。ミネソタ州トゥモローの現場から、ジャニス・フェイバーがお伝えしました」
「ありがとう、ジャニス」
 中継の画面がスタジオセットに収斂すると、男性キャスターはため息をついて、視聴者に――実際はプロンプターが打ち出す文字の行列に向かって――敬虔ともいえる表情を浮かべた。「いまや国中の祈りと関心が、彼女の上に注がれています。わたしたちも幼い生命が救われるよう、ここから祈りましょう」
「あいつ、見かけによらず、良いコメントをするな」パーカー姿の青年がつぶやいた。
「そうでもないでしょ。ネクタイの色が変よ。スーツの柄とあってないわ」
 突然、画面のキャスターがネクタイをいじった。
「あれ、変だな。あいつ、あんたの声が聞こえたみたいだぜ」
 次の瞬間、リリーの大嫌いなキャスターが、パネルの向こうからリリーを見た。
「ルナチク市に現われた〈天使〉が見ていたら、聞いて下さい。あなたの助けを必要としている、幼い生命があそこにいて、彼女は危機に瀕しています。わたしの声が聞こえていたら、すぐに助けに来て下さい。彼女に神のご加護を。それでは次のニュース」
 キャスターはプロンプター越しに、メラニスタン共和国という、ルナチク市の大半の市民が聞いたこともない、中東の国の内乱のニュースを伝え始めた。
「あいつ、何を言ってやがるんだ。〈天使〉がどうとかって、頭がいかれちまったんじゃないのか、なあ?」
 パーカー姿の青年がリリーを見下ろした。
 リリーの姿はなかった。



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