「小さきものよ、 歓喜と明朗によりて作られしものよ、 行きて愛せ、 地上の何ものの援 (たす) けをも借りることなく」 (William Blake “Poetry and Prose”訳・中村保男)
アストリア航空四七四便は、今、地獄に向かって降下しているところだった。 四つあるエンジンのうち、第三、第四の二つが落雷のために火を吹き、第一エンジンも油圧系統に変調をきたしていた。カンボジア人のパイロットは、死に物狂いで機体の制御をとり戻そうとオートパイロットを切り、操縦桿と格闘していたし、添乗員たちも、悲鳴をあげる二百人の乗客を落ち着かせるため、絶望的な努力を続けていた。 四七四便の運命は、すでに決まったかに見えた。 国際線に勤務して二十四年目になるアルメニア人のフライトアテンダントが、激しく揺れる客席のあいだを、手足を使って後部へと移動していった。機体が乱気流に巻き込まれると、酸素マスクがいっせいに垂れ下がり、シートベルトをはずしていた乗客たちが何人か、天井に叩きつけられた。 フライトアテンダントがはねあがり、床や天井にはね返って、アフリカ系アメリカ人のビジネスマンの上に尻持ちをついた。 機体の後部、右寄りの座席にすわっていたトルコ人の少年が、窓から外を見て叫んだ。 「ママ、見て! 天使がこっちへ飛んで来るよ!」 その時、四七四便の機体が、すうっと浮かび上がった。 乗客たちの中でも比較的冷静だった十数人 (独立したばかりのチベットから、ヨーロッパ経由で、ルナチク市の世界宗教会議の年次総会に出席するため、生まれて初めて飛行機に乗ったラマ僧の団体客たちだった) は、あとになってテレビ局のインタビューに答え、機体が浮かび上がるのを感じ、これが《最終解脱》なのだと勘違いしたと語った。 「経典にある通りでした」と一人の若い僧侶は、テレビカメラの前で緊張した面持ちで、通信教育で習いおぼえた、たどたどしい英語で話した。「まるで新世界貿易センター・ビルの、エレベーターに乗った気分でした」 (あのビルに行ったことがあるのかと訊かれ )「いいえ、ありません」 機体は全乗客乗員の予想に反して、最寄りの空港へ飛び続けた。 空港では四七四便の受け入れ態勢を整えるべく、管制官の命令で、空港に着陸していた全航空機が駐機場に退避する一方、同空港へ接近していた四機の旅客機が、上空で旋回、または最寄りの別空港へ向かうよう指示を出されていた。滑走路が空けられ、不時着に備えて化学消化剤が撒かれると、緊急車輌が待機する。 折りからの西風にあおられ (ハリケーンが発生していた)、雷雲が空港の上空へ接近しつつある旨が報告されると、管制官は舌打ちした。雲に向かっても回避の指示を出したかったが、そんなことをするべくもなく、ただほぞを噛んだだけだった。 滑走路わきで待機していた十数名の空港職員と警備員の一団が、夜空の一角から近づいてくる巨大な物体に気がついた。銀色の十字架のようだった。 事故の究明に当たったNTSB (国家運輸安全委員会) とルナチク市航空路交通進入管制センターの面々は、あとでその場の状況報告を比較検討したのだが、非常事態の常で皆が混乱し、出来事の印象も錯綜していた。 全ての証言に共通していたのは、四七四便が自力で飛行していたようには見えなかったことだった。 機体は《神の見えざる手》に運ばれるように空港上空へと接近し、およそ七百名の空港職員と三千五百名の足止めをくった旅客たちの前で、信じられないほど静かに滑走路に横たえられた。乗客たちが緊急脱出スライドで脱出し、消防車の化学消化剤が雪のように降りそそいで、エンジンの炎を消し止めた。 職員の一人が気がついたが、四七四便は片方の着陸装置を引っ込めたままだった。 同調査委員会は目撃者を探したが、四七四便に何が起きたかを正確に話せる者はいなかった。わかったのは四七四便を予測不可能なアクシデントが見舞い、同じくらい予測不可能な手段で危機を脱したことだけだった。 あとになって乗客たち――例の冷静沈着なチベット僧侶の一団から、「機体がふわりと持ち上がった」と聞かされた委員たちは、その瞬間こそ四七四便の運命の別れ目だったと悟った。機体にいかなる浮力が生じたかを検証するべく、気象観測データが参照され、気象学的、航空力学的な可能性が検討された。 その結果、メンバーたちは頭をかかえた。結論が出せないまま、同委員会は未決の報告書を当局に提出した。 同委員会には知らされなかったことだが、事故機から数百マイル離れたとある空軍基地のレーダー・スクリーンに、四七四便の機影と、同機に異常なスピードで接近する光点が映し出されていたのだった。空軍基地のレーダーは、ある特赦な任務を負って、その輝点(ブリッブ)の出現に備えていたところだった。 「ミサイルだ!」物体がスクリーンに現われた瞬間、当直のレーダー士官は軍人らしい率直な反応を示し、あらためて輝点を見つめ直した。「すごいスピードで飛んできます! 時速はおよそ――千六百三十マイル! 信じられないスピードです! ああっ! ぶつかる! ぶつかる! ぶつかる! ぶつかる! ああっ、やった!」 だが、部屋にいたあるゆる人種・階級の兵たちの予想に反して、四七四便の機影は消え去ることはなかったし、くだんの輝点も二度と現われなかった。 機影は飛び続け、レーダー士官がレンジを切り替える間もなく、空港へと降りて行った。 「どうなってるんだい?」隣でのぞきこんでいた童顔の兵士が質問したが、答える声はなかった。 「ゴードン将軍に報告だ」誰かのつぶやく声が聞こえ、部屋にいた約半数がふり返った。つぶやきをもらした人物は、不用意に言葉を漏らしたうかつさを恥じるように、早くも部屋の外に出かかっていた。 「誰なんだい、今のは? 見かけない顔だったけど」スクリーンを注視していた士官の隣で、部族原住民出身の兵士が訊いた。 その声の届く範囲にいた連中は、男も女も肩をすくめ、自分の受け持ち任務に戻るばかりだった。 一方、廊下を直進し、隔離された個室に入ったくだんの人物は、ワシントンDCのゴードン将軍に連絡をとるべく、受話器の向こうのオペレーターに、秘密の内線番号を唱え始めた。
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