昼休みに座っていた場所へ私は鞄を置き、腰をおろした。六道先生が引き戸に鍵をかける。 「ふたりとも怪我ないか。あれはここには入ってこられないから、下校時間までいていいぞ」 平気と答えるが、会長は肩をさすっている。 「会長、肩」 彼はあわてて手をおろす。裂けたように見えた学ランは無傷だった。 「なんでもないよ」 「ちょっと脱いで、肩を見せろ。怪我でもしてたら事だ」 先生に言われて会長はしぶしぶ肩を出した。そこには赤く腫れ上がったちいさな切り傷があった。獣の爪は、左肩の皮膚をわずかに傷つけていたらしい。隣で見ながら、攻撃してきた爪の一振りを思いだして背中が寒くなった。 「かすっただけみたいだね。赤くなって腫れてるから、消毒したほうがいいかも」 会長は目をまるくした。 「え、どこ?」 六道先生も顔をあげる。 「取井は霊感強いのか」 「貴子に探知機って言われたくらいは。いきなり、なんで?」 「ああいった輩から受けた傷は、普通は見えない。吉備にはまったく見えていないはずだ。それもこんなかすり傷は、あるていど寺で修行した者じゃないと見つけにくいもんだ。これが見えてるのなら相当だぞ」 「はあ」 喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な思いで傷に目を落とした。会長は服を整えたあとも肩をさすっては眉をひそめる。 「吉備。肩のあたりなんだが、痛かったりしびれていないか」 「すこしだけぴりっとしてます」 「そうか。症状だけなら水をかけたほうがいいな。家に帰ってからでいいから、肩に真水をかけておけ」 「水ですか?」 「そうだ。水道水でいい。放っておいてもいいが、真水で清めるとすぐ痛みは消える。やっておけ」 「わかりました」 「これで三度目か。あれはつくづくキミのことを気に入っているようだな」 先生は仏壇入りロッカーに物をしまいながら、あきれるように言った。会長も力なく笑う。私は勝手にお茶を入れて机に並べ、会長の手前に座った。 「先生。保健室、なんで戻っちゃったの?」 「内緒だ。と言いたいが、言っておくか」 先生は会長の隣に腰をおろした。 「あれは西川アキに憑いた化け物が、妖術で作った結界みたいなものだ。獲物を逃がさないために脱出もさせないし、ほかの侵入もさせない。音もほとんど通さないんだぞ。中のやつが魔物だったり、私のように修行をした者ならば声くらい通る。さっきの取井の声はよく聞こえたなあ。お前、本当に霊感強いんだな」 私は頭を掻いた。そうだったんだ。だから倉庫にいた時も会長には聞こえたのかな。 「その妖術と同じくらいの力があれば結界に侵入できるし、術を使っているやつの妖力が切れると結界は壊れて、中の状態も元に戻る。保健室や吉備の学ランのようにな。あの怪我なら、学ランの肩パットくらいきれいに裂けていてもおかしくないのに、穴もなく、でもってふたりそろって埃だらけだ。埃は魔物に受けた傷じゃないから、しっかり残っているというわけだ。お前ら、床にでも転がったのか?」 言われてあわてて埃をはらう。 「魔物から受けた傷は、さっき言ったように普通は見えない。ただし受けたことには変わりない。自然治癒するけどな、治るまでにそこだけ調子が悪かったりするんだ。重傷なら癌になったりな。だから真水をかけたり読経して祓えば、すぐ治る」 ふたりそろって感心していると、先生はくすくす笑った。 「普通はふざけるなとか怒るもんだぞ。特に吉備なんか霊感ないのに」 会長はむっとする。 「連続してあんな目に遭えば、誰でも信じますよ」 「そりゃそうか」 先生はお茶をすすった。 「今回あいつがどこからわいて出たか、見たか」 「天板を外して、私の寝てたところに落ちてきました」 「なるほど。校内に潜んでいやがるな」 会長が頭を下げる。 「二回も助けていただきまして、どうもすみませんでした」 「礼はいい。これ以上被害を出したくないだけだからな。ただ、ここまで一人に固執するのは異常だ。なにか理由があっていいと思うんだが、吉備自身に心当たりはないか。変なものを拾ったとか、あきらかに人ではないものに出会ったとか」 「……いえ、なにもないです」 会長はうつむいて、それきり黙ってしまった。 「そうか」 先生もそれきり聞かず、席を立つ。 「話てくれてありがとうな。疲れただろう。パイプ椅子をベッドにして横になったりしていいからな。放課後までゆっくりしていけ」 私たちはうなずいた。 先生は机に向かって書類を書きはじめ、じき会長は机に伏して眠りだした。私は貴子に事の次第と、一緒に帰りたい旨を書いたメールを送信して、会長のように顔を伏せて眠りについた。 倉庫の夢を見た。 積み上げられた椅子や机の奥で、息を潜める赤い影を見た。よくないものだ、と思った。恐怖や憎悪、嫉妬、嫌悪といったものの塊のようで、嫌悪に顔がゆがむ。 影はそこで虎視眈々となにかを待っているようだった。 隅の穴から、ふたり入ってきた。男子が怯える女子の手を引いて促す。男子は薔薇の指輪を、女子は薔薇のピアスをしている。カップルには間違いなさそうだ。 彼氏がマットレスを見つけて手招きした。彼女は青ざめて首を横に振り、なかなか行こうとしない。彼氏が伸ばす手を逃げて、机の山に足をぶつける。 その時、赤い影が彼女の足下から駆け上がり、煙のようになって頭の先まで包み込んだ。あっという間だった。身動きも取れず悲鳴も上げられない状態の彼女に、彼氏は気づかない。いや、見えていないのだ。赤い煙が鼻と口に吸い込まれるように入っていくさまを見ていたら、誰でも悲鳴を上げるだろう。 煙がなくなったあと、彼女は起立したまま動かなくなった。彼氏が彼女の手首を取ると、顔を上げて、笑った。金色に光る目で、サメのように並んだ牙を見せて。彼氏の頬が食いちぎられるのを見て、私は悲鳴を上げた。 「取井、取井」 「あ、あれ。会長?」 揺さぶられて悪夢から解放された私は、心配顔の会長にほっと力が抜けた。それでも心臓は痛いくらい脈打っているし、全身も汗でじっとりしていた。 「うなされてたけど、だいじょうぶ?」 「起こしてくれて良かった。倉庫の夢見てたから……怖かった」 本当に怖かった。今になって手がふるえてくる。
誰かが廊下を走ってきた。隣で止まったが、すぐこちらの引き戸が乱暴に開けられる。寝ていた間に鍵を開けたのかな。 「会長、大丈夫ですかっ!」 「お前らそろって、なに保健室追いだされてんだよっ。いないから、びっくりしたじゃん」 「そういうお前らこそ追い出されたいか! もっと静かに入ってこいっ」 我先にと入ってきた乾と遠藤に、六道先生が怒鳴った。 聞こえてくる廊下の雑踏からして、どうやら放課後らしい。けっこう眠ったようだ。PHSを見ると、貴子からメールが来ていた。了解、一緒に帰れない、だけか。親友らしくないあっさりしたメールが、やけにさびしく感じる。私、貴子になにか悪いことでもしたのだろうか。 「なにがあったんだよ!」 いきなり遠藤が顔を出してきた。移動のわけを知りたくてしかたないらしい。 「保健室に、あれがでたの。六道先生が追い払ってくれたから良かったけど」 会長が言葉をつなげる。 「それでこっちに避難してきたわけ」 遠藤は血の気が引いていった。乾は会長の両肩をつかむ。 「怪我はないですか、会長!?」 「うん、だいじょうぶ」 生徒会長ひとすじの書記に、横目で見ながら言ってみた。 「あのさ、私もいたんだけど」 「ああ。そうか」 おまけのような扱いに私は肩を落とし、遠藤が大笑いした。六道先生は戸によりかかって腕を組み、私たちを楽しそうに見つめている。 「そろったところでお前ら。ちょっといいか」 私たち生徒会は同時に顔を上げる。 その瞬間、先生はこちらにむかって何かを投げつけた。それはまっすぐ会長の鼻先に当たって、胸元をすべり落ちる。 「いたたた。……なに、数珠?」 「ばちんって言ったぞ。ばちんって」 会長は痛そうに鼻を押さえながら真紅の数珠を拾った。遠藤はゲラゲラと笑いながら彼の肩を叩き、私はなにが起こったのか把握できないまま被害者と加害者を交互に見つめる。 「きさま、何をする?!」 乾が肩を怒らせて先生の胸ぐらにつかみかかった。それに関わらず六道先生はけろりとしている。 「吉備。なんともないか」 「鼻が痛いです。乾、いいから」 乾はしぶしぶ手を離し、会長は左肩をさすりながら数珠をさしだした。先生は赤い珠を受け取りながら申し訳なさそうに謝った。 「力任せに投げちまった。痛かっただろう、すまなかったな。肩の怪我、変に痛くなってきていないか」 「ちょっとだけ」 そう言うわりには眉間にしわが寄っている。 「鬼の気が残っているせいだ。じき治まる」 乾と遠藤が話に入れず、よくわからないといった顔で見合わせる。 私は先生の、鬼という言葉に胸騒ぎを覚えた。 あの金色の目をらんらんと光らせ、牙を剥いて襲いかかり、人を片手で飛ばすほどの強さと獣のような敏捷さを持って、いるだけで恐怖や威圧感をかもしだす、人ならざる存在。 会長がたずねた。 「先生。あれって鬼なんですか」 「鬼だ」 六道先生は断言した。 「正しくは鬼憑きという。血と肉が好きでな。憑かれたほうは金の目になる。なかには目をうまく隠すやつもいるが、共通して赤い数珠を嫌がる。すこしでも接触した者は憑かれたり妖術にかけられている可能性があるから、数珠を持たせたり触れさせて確認するんだ。嫌がるようなら鬼に操られていたりする。その時は数珠で、憑いた鬼なり妖術なりを祓ってやるだけだ。ほら、乾も持ってみろ。万が一のことがあっても、私が祓ってやるから」 乾は数珠を受け取って赤い光沢をいぶかしげに見る。特になにも感じなかったのだろう、次はオレだと騒ぐ遠藤を無視して先生に返した。 「住職はそう言っても、俺は納得できん。そんな事、ありえるわけが」 「ないって言い切れないだろう、乾。あれは嘘だって思いたい気持ちもわかるけど、現実だよ」 会長に言葉を遮られ、乾は痛いところを突かれたように下唇をかんでうつむいた。肩を落として、認めたくないが認めざるをえない、といったようすだ。 六道先生が大人の顔で語りかけた。 「信じたくない気持ちはわかる。私にもそういう時期があったからな。だから乾も無理に信じなくていい。ただし、吉備の命にかかわる緊急事態ということだけ念頭においてほしい」 「どういう意味だ」 「この場にいる全員に話しておきたいことがある。信じる信じないは自由だ。しかしこれからどうすべきかだけでも、耳に入れておいてほしい」 先生は会長の前に腰を下ろし、乾と遠藤が座るのを確認してから、おもむろに話はじめた。 「聞いてのとおり、あのあと保健室に寝ていたこいつらが襲撃された。駆けつけた私も、鬼に憑かれた女子に会った。保証する、あれは鬼憑きだ。よつんばいで獣みたいに跳び上がるのは魔物憑きでもみるが、両目が金色だ。あの特徴は鬼にしかないものだ。とりあえず追っ払ったが、あれはいずれまた吉備を狙ってくるだろう」 私たちは息を呑んだ。あんな化け物が襲ってくるなんて、考えただけでもすくみあがる。 「でも、なんとかなるんでしょう、先生」 一番危険が迫っている当人の妙におちついた声に、全員が目をやった。 「あれも最後には僕が倒すつもりだし」 「そうですか……えっ」 乾がいつものように返答しかけたのも当然、会長はまるで生徒総会で新案でも出すように、恐ろしくとんでもない事をさらりと言ってのけた。 誰かが聞き返す間もなく、先生が机に身を乗り出して怒鳴りつけた。 「なにふざけた事言ってやがる! ろくに知識もないくせに討つなんてかんたんに言うな! 失敗すりゃこっちが食われて終いだ。俺達は奴らの首を取るために、本当に命を賭けてるんだぞ。今まではたまたま俺がいたから運良く追っ払えただけで、お前が討てるわけないだろう! そんなことくらいわからんのか!」 六道先生の変わりように私は身を縮める。口調も性格も変わるんだな。 会長も小さくなってると思いきや、毅然とした態度で見返した。 「わかってますよ。どこにいても僕を狙ってくる事くらい」 「あのな」 「どれだけ怖い化け物か、いやになるくらい知ってます。それに、どんなに対処しても、結局は一時しのぎだということもわかってます。あいつを倒さないかぎり、僕はいつか必ず食い殺される」 先生を強く見る瞳には怨恨すら感じさせた。 「その時を黙って待つくらいなら、こちらから出て一矢報います。討つことができればそれこそ本望。お願いします。討ち方を教えてください」 「断る」 冷たく突っ返され、会長は立ちあがった。 「先生」 「一矢報いるにしてもそれなりに修行が必要だ。それこそ生半可な修行で抵抗してみろ、あっけなく食われるか憑かれるのがオチだぞ。むざむざ人を死なせてたまるか。討ったりなんだりは俺がやる」 「それでも僕は!」 「吉備!」 先生に釘を刺され、会長はくやしそうに目を反らす。 私はぶつかりあう二人に目を見張っていた。会長がここまで感情的になるところを見るのは初めて見た。話の方向が気になる反面、ここまで彼の感情を引き出せる先生がうらやましい。 乾は生徒会室でやるように、腕を組んで会長の斜め後ろに立ったまま目を閉じ、眉間にシワを寄せている。黙って話の行く末を見守っている証拠だ。遠藤はあまり気にしていないらしく、職員用の机に腰をかけて足をぶらぶらさせている。 六道先生は会長の肩に手をおいた。会長はパイプイスに沈んでうつむく。 「適材適所だ。生徒会長やってるならわかるだろう。ここは任せろ」 会長の机上で握りしめた拳が、さらに力が加わって白くなる。 「だけど、この手でやらないと、だめなんだ……!」 先生はばりばり頭をかくと、観念したように小さく息を吐いた。 「……ったく。わかったよ」 会長は顔をあげた。頬が紅潮し、目を輝かせている。 「深い事情がありそうだが、今は聞かないでおいてやる」 人差し指を会長の鼻先に突きつけた。 「協力だけだ。俺が討つから、そこまで手を貸せ。それでどうだ」 「ありがとうございます!」 とたんに場が活気づく。先生と会長は机に身を乗り出した。 「あれに目をつけられたのはいつだ」 「昨日。先生に会ったあの時です」 「今日で二日目だな。よし。吉備にちょっと泳いでもらうぞ。おびき出すのにこんなに適した奴もいないしな」 乾と遠藤が不満の声を上げた。 「会長を危険な目に遭わせることには変わりないじゃないか」 「オレ、吉備は出なくていいと思うぜ。そんなにうまくいくわけねえじゃん」 生徒会長は書記と会計の反応が意外なようで、不思議そうに見つめる。 「僕のせいなら出るべきだろ。出てマズイことでもある?」 私は手を挙げた。 「私は会長に賛成。会長の決めたことだもん、いいんじゃない?」 ふたりはきっと、本当に会長に危険な目に遭わせたくないんだろう。私もそうだ。だけどここは彼を応援したい。自分でやるって言うことは、絶望なんか足元にも及ばないってことなんだから。 わがまま言えば、そこにほんのすこしでいいから、自分が協力できたらいいんだけど。 六道先生がくすくす笑った。 「誤解させたようだが、実は吉備ひとりじゃだめなんだ。お前ら全員手伝え」 とたんに室内の雰囲気が沸き立った。 「手伝ってもらうかわりに俺の指示は守れよ。吉備の次に危険な目に遭いやすくなるんだからな、腹据えてかかれ」 「まかせろ!」 遠藤が親指を立てる。 「ああ」 乾は腕を組んだままうなずく。 「いいよ」 私は腰に手をかけた。頼み事を受けるときの癖。 六道先生は頼もしそうに私たち三人を見つめ、最後に会長に目線をやる。よかったな、とでもいうように。会長は心配半分うれしさ半分といった顔で笑った。 「吉備はとりあえず、学校にいる間はできるだけ誰かと一緒にいろ。気配が紛れるくらい大人数の場所がいい。登下校もできるだけ誰かといるように。殺人鬼にストーキングされてると思えば行動の取り方もわかるだろ」 いやだなあ、と会長は声を漏らす。 それと、と先生は付け加える。 「このあと、うちの寺に来い。対処方法を教える」 全員が声をそろえて返事した。あんなに怯えていたのに、もうなにも怖くない。 みんな一緒なら大丈夫、だよね。会長。
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