20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:チャンドラ 中華街の星たち 作者:hanaco

第1回   プロローグ
  「 プロローグ 」

ある日、じっと鏡を覗き込んでいた。けして自分の顔に酔いしれていたわけではない。

 顔に散りばめられた無数の傷跡が、しわと染みにまぎれて目立たなくなっていることに

感心していたのだ。しかし、よくよく見てみると瞼の上の小さな傷が今でもくっきりと残

っている。昔から右目のほうが少しばかり小さいのはこの傷が勲章の如くのしかかってい

たからだ。などと勝手に納得していた。

 少年期、青年期にこしらえた喧嘩の傷跡などは身体中にいくらでもあり、消えている傷

もあれば残っている傷もあるのだが、この瞼の傷が今でも不思議な感覚で脳裏に焼きつい

いるのは、この傷が中華街でのバトルの予告であったからだ。

 それは昭和三十年代の後半、小学校一年の時のことだ。

 鷲づかみにされた両瞼に相手の爪がガッチリと食い込み、この傷はめでたく刻印された

のだ。僕にしてみれば物心がついて初めての大喧嘩だった。

 相手は二学年上で中国系ハーフの二人組み、中華街周辺ではその学年の番長格という肩

書きを背負った問題児であったのだが、幼稚園の頃から知る彼らとの仲は良好だったはず

だ。しかし、喧嘩の最中に瞼を先に切られてしまっては、ボクシングと同様に前が見にく

なって大変不都合である。しかも二学年上を二人も相手にしていたら、目に流れ込む血を

拭う度にパンチの雨嵐だ。しかし、最初から勝てると思って始めた喧嘩じゃないし、とに

かく目の前が見えない。

 観念した僕はどうにでもして下さいと言わんばかりに腰をおろし、胡坐をかいて腕を組

と目を瞑った。いわゆる破れかぶれ作戦だ。

 しかし不思議とそこには涙も流さずにひょうひょうとしている自分がいた。すると、彼

らは攻撃の手を止めて僕の顔を覗き込み。

「エフ、大丈夫かぁ・・・・?」

 と、優しさは見せたもののばつが悪そうに逃げ帰ってしまった。

 何が、大丈夫かぁだ。ちっとも大丈夫ではない。

 しかし、彼らのその言葉だけで、全てを許していた僕は父親譲りのお人良しである。

 帰り道、目の上から滴り落ちてくる血は止まらず、拭っても拭っても目の中に落ちてき

た。そして、関帝廟通りから我が家までの路地になんとかたどり着き、玄関の格子戸を開

けた時には顔中が血だらけであった。

 そんな僕を目の当たりにした母は驚愕して膝を床に落としていた。しかし、その傍らで

「喧嘩かぁ、こりゃ、やられた顔だぁ・・」と、父は手を叩いて笑っていた。

 父の言葉を間にうけた母は僕の肩を揺すりながら原因の追究をし、相手の名前を聞き出

そうと懸命であった。僕は相手の名前だけは言うのを拒み続け、黙ったまま俯いていたの

だが、どうやら父は感づいていたらしい。しかし、僕の黙秘も無駄に終わってしまった。

 二人組みは不思議なことに一時間もしないうちに我が家に誤りに来てしまったのだ。

 きっと彼らの脳裏に僕の父の顔が過ぎってしまったのだろうが、父はそんな野暮な男で

はない、それどころか二人組みを前にとんでもない事を言った。

「ヤンにロン、案の定、お前さんたちかい、よく謝りにきたな。どう考えたって、お前さ

んたちが相手じゃ、うちのお坊ちゃんじゃ歯が立たねぇやな。まあ、たまには気合を入れ

てもらわねぇとな、この辺りで生き残っていけねぇしな。

 けどな、二対一ってぇのはいただけねぇなあ、お前さんたちが年上だろうと一対一のタ

イマン勝負だったらいつでも相手させてやるんだがなあ。どうでぃ、謝りにきたついでに

もう一勝負するてぇのは、すくでもいいぞ。ヤンかロンか、どっちがやる? エフ、もう

一度やれ」

 父のとんでもない言葉に母は気絶寸前にいた。ヤンとロンは俯いたまま硬直しており、

僕は、冗談じゃない、勝手なことを言うな、そんな思いで俯いていた。

 思えばその時、心の中に変化が現れたのは確かだ。なんともいえない爽快感と、これだ

け殴られてもしっかりしている自分に自信みないなものがメラメラと沸き上がってきてい

た。そして、先に瞼を切られると目の中に血が流れこみ前が見えなくなる。先にやらなけ

れば喧嘩に勝てる訳がない。と、教訓し、先手必勝を心に誓うのであった。

 それ以来二学年上のヤンとロンとの仲はそれまで以上に深まり、兄貴のように慕うよう

になるのだから皮肉なものだ。

 そのうちヤンやロンと同年齢のキートンやダイなども僕の味方的存在になり、一緒にい

ることが多くなっていった。しかし、その後、中国系、朝鮮系のグループから狙われるよ

うになっていた。

 思えば、人種的な蟠りもあったろうが、僕がつるんでいたヤン、ロン、キートン、ダイ

という存在は、様々な人種の連中からしてみれば神様のように崇め、のちに中華街を牛耳

切っていく四天王であったからだろう。彼らにしてみればそんな連中とつるんでいる僕を

許せなかったのは確かだ。彼らは僕が一人でいる時を狙いことごとく襲いはじめた。

 そのおかげで今でも背中越しからひくーい声で名前を呼ばれるのが大嫌いである。振り

返りざまの事態がトラウマの如く脳裏を掠めるからだ。

 確かにあの頃は振り返ったとたんパンチがとんできた。パンチならまだましである。バ

ット、鉄パイプ、角材などが飛んで来ることもあった。だからか、呼び止められたら直ぐ

に振り返らず、なんでもよいから目敏い武器を探して素早くそこまで走り、それを握って

から振り返るようになっていた。さすがに今では当時の呼び名で僕を呼ぶのは親戚ぐらい

なものだろうから、このような行動を起こすことはないが、あの頃はそれが日常であり涙

で汚れている顔を悟られまいと、家の真裏になる勝手口のドアをそっと開け、半畳ほどの

上がり口右側に設置してある洗面台で顔を洗っていたことも度々あった。

 しかし、小学生低学年のその頃には激痛にながしていた涙も、日々悔し涙から復讐の涙

に変わりやがてそれは枯れ果てていった。そして、それを見かねた父の一言から全てが始

まった。

「男はな、やらなきゃならねぇ、時、ってもんがあんだ。お前さんがヤンとロンとやった

時もそうだ。そんなに悔しいならやられることを恐れねぇで、一人で男気ってもんをみせ

てこい。行ってこい!」

 そう言って父は玄関に立てかけてあったバットに向かって顎を振った。僕はバットを握

りしめ一人であのグリープの縄張りに殴り込んでいた。


       *            *            *


 昭和四十年代、世の中は暗から明へと移り変わり、三十年代からの好景気もさながら高

度経済成長の真っ只中にあった。

 白黒からカラーに移りつつあったブラウン管の中では、クレイジーキャッツやコント五

十五号などが走り回り、てなもんや三度笠やでんすけ劇場などの舞台演劇が世を賑わせ、

若者たちは髪を伸ばし始めラッパズボンで街をかっぽし、ビートルズに狂喜乱舞し、GS

ブームに火がつきはじめていた。

 そんな時代の最中、中華街では日本、中国、朝鮮、日中のハーフ、日朝のハーフ、東南

アジアなど異種多様なグループの少年たちが人種別に分かれ、自分たちのプライドを守る

為に連日の如くバトルを繰り広げていた。

 その頃、四年生になっていた僕は、乱暴、やんちゃ、無鉄砲と三拍子のレッテルをはら

れるほど逞しく育ち、仲間も多い代わりに敵も増え、幼い頃からの相棒であるケンと共に

日本のグループを強化し、喧嘩になると僅か五人で立ち向かっていた。

 
 中華街は入口の善隣門から中山路、香港路、市場通り、上海路と四つの十字路からな

り、その十字路を長安道、関帝廟通り、広東道、元町へと続く南門通りが取り囲み、その

他にも様々な名称を持つ通りや路地が枝のように延びている。

 その中で当時から一番活気があったのは、ほぼ中部に位置する市場通りであった。現在

この通りは中華料理店が軒を連ね観光客の往来が激しい通りだが、当時は観光客だけでは

なく地元の買い物客で賑わっていたから活気だけは劣っていなかった。今でこそこの通り

も中華街大通りからの延長と化しているが当時は多種多様な業種の店が建ち並び、商店街

なる賑わいを見せていたのである。

 そんな通りや路地がそれぞれのグループの縄張りとなり、それは通りごとにきっちりと

分かれていた。その中には暗黙の了解的なフリーゾーンと三つの危険ゾーンが存在した。

フリーゾーンは主に香港路、上海路、関帝廟通り、広東道、南門通りや様々な路地を示

し、東南アジア系の縄張りである長安道などもこの部類に属していた。このフリーゾーン

は主に年上の連中やハーフのグループが支配していたため僕たちにとっては比較的安全で

あったのだが、中国系グループが縄張りとする中華学校を拠点とした中山道、朝鮮系グル

ープが縄張りとする市場通りの延長になる朝鮮マーケット通り、そして、日本のグループ

が縄張りとする市場通り、この三本の通りが危険ゾーンで文字通りこの三グループの抗争

が一番激しかった。

 そんなグループの中でも日中のハーフ、日朝のハーフ、東南アジア系などは日本の小学

校に通っている連中も多く僕たちとの関係も比較的良好であった。その中に朝鮮系ハーフ

のリョウという少年がいた。学校やこの周辺で右に出る者なしと言われたほどの強者であ

ったのだが、群れを嫌いどこのグループにも属さず牙を向いた一匹狼的存在であったのだ

が、僕とは馬があい年上と絡んだ時には力を貸してくれ、僕たちのグループの影の親分と

もいえる存在であった。
  
 こんな連中がうじょうじょいるのである。一人の時は要注意だ。とくに路地裏を歩く時

は、後ろを振り返りながらあるくべし、神経を研ぎ澄ませながら歩くべし、これは鉄則で

あった。この掟を自分で破った時には「ガッツーン!」と、後頭部に衝撃が走る。僕はた

まらず頭を抱え込んで両膝を地面に落とし「こ、こ、このやろー」なんてふらつきながら

振り返ってもそこにはレンガを投げ捨てながら「ざまぁみろ!」などと可愛いことを言っ

てうれしそうに舌を出して逃げていく連中の姿が霞んで見えるだけである。それでも追い

かけようとすれば頭に激痛が走り、首筋に汗のようなものがツーと流れ、そのうち背中が

生暖かくなりそれが冷たく感じたころにはシャツの背は血だらけであった。

 そして、時には路地の影から目の前に角材が振り下ろされた。『残念でした、ばぁか」

と、角材を握りしめている相手の股間を蹴り上げ、尻餅をついている相手の顔面にもう一

発蹴りをお見舞いしようと足を上げた瞬間、相手は握っていた角材を僕の可愛い足に向か

って下から振り回し、角材はみごとに僕の足に命中した。

 いつもであれば角材が当たった感触などアドレナリンが消してくれるのだが、明らかに

当たった感触よりも刺さった違和感を覚えた時には激痛が脳天まで走り抜けた。まさか角

材の先に五寸釘が打ち込んであるとは思っていないではないか、しかし、上げた足をその

ままにしておくのはもったいない。僕は相手の顔を蹴りおろし靴のつま先を相手の口の中

につっこみながら反省をするのだ。

 しかし、そう度々頭をレンガや鉄パイプで殴られていては悪い頭がますます悪くなる。

時には突然の奇襲に対して逃げるのも仲間を集めるための作戦の一つであった。路地から

路地をにげまくり「アーアーアー!」と、大げさに声をあげて市場通りを走り抜ければそ

のうち必ず路地の影から正義の味方が現れるのだ。それが相棒のケンや三ばかトリオであ

った。

十mほど先には鉄パイプと黒いバットを這わせながら、ケンが、八つ墓村のたたりじゃ、

の如く走ってくる。しかも黒いバットは僕の愛用のもので、わざわざ我が家の戦闘基地ま

で行って持ってきてくれるのだ。

「ケン君、いやケン様よくぞ現れてくれた!」

 僕は即座にバットを受け取りニヤリと振り返り、逃げていく彼らを追いかけまわし愛用

のバットでぶったたいてやるのである。するとそのうち「ガリガリガリ!」っと鉄パイプ

を引きずる音が響いてくる。それが三ばかトリオを中心とした僕の仲間たちであった。

 この音は僕たち日本のグループが殴りこみにいく際に威嚇のために鳴らす音であったの

だが、相手はこの音が聞こえたとたん逃げてしまうし、これからいきますよぉってわざわ

ざ知らせに歩いているようなものである。しかし、当時の僕たちはそれが自分たちの存在

を示すための絶好の手段だと思い込んでいたのだ。

 彼らも僕たちも中華街の路地を知り尽くしていた。彼らが逃げれば僕たちが追い、僕た

ちが逃げれば彼らが追いかけてくる。時には僕たちの溜まり場である台南小道の路地裏や

家の玄関にまで爆竹を投げ込んでくる始末である。そうなると迷路の如き路地は戦場と化

し抗争はエスカレートしていくばかりであった。しかし、この抗争は外だけのことではな

く家にいる時でも油断がならなかったのだ。

 我が家の近所は中国系の家族が多く、家の佇まいも洋風的な家がほとんどであった。だ

からか我が家の内装は当時の日本家屋と比べると変わっていて、一、二階の部屋のほとん

どが板張りで、寝床にしていた二階の六畳間が唯一の畳部屋であった。その部屋と並んで

洋服職人の仕事部屋があり常時四、五人働いていたため、一階の台所兼用の部屋が食堂の

役割をしていた。そして、一階の半分近くが事務所になっていて、ローテーブルを挟んで

二人掛けと一人掛けのソファーがあった。一人掛けのソファーは僕のお気にいりの指定席

になっていて、時には戦闘基地として重要な役割を果たしていたのだ。

 僕が家でおとなしくしている時は、このソファーを玄関に向けて腰をおろし、右目でテ

レビを見ながら左目で玄関を監視していた。監視といっても泥棒を捕まえて退治してやろ

うなどと意気込んでいるわけではない、僕にしてみれば泥棒よりも数倍厄介で鼻の穴を闘

牛の如く膨らませた様々な人種のグループがやってくるからだ。

 その中でもテイ、コンジン率いる中国系のグループやキム、ヨンホウ率いる朝鮮系のグ

ループは頻繁にいらしてくれるのだ。たいへん気が荒く怖いお坊ちゃん方である。彼らは

僕が家にいると匂いを嗅ぎつけては玄関の向こう側で待ち構えていた。俗にいう殴り込み

である。幸い、彼らは家の中の様子を伺っているだけだ。僕の仲間なんぞは入るなと言っ

ても勝手に上がりこんでくるし、我が家を避難所と感違いしている少年たちが血相を変え

て逃げ込んでくるような家なのだ。僕としては遠慮しないで堂々と入ってくればいいと思

うのだが、彼らが我が家の境界線を越えられないのには理由があった。

 僕のお気に入りのソファーは殴り込みに来た連中を追っ払うために大活躍をするから

だ。ソファーの下、二十cmほどの空間には今まで集めた様々なアイテムが、早く使って

くれとばかりに転がっている。スパナ、ドライバー、トンカチ、クギヌキ、バット、鉄パ

イプ、パチンコ、銀玉鉄砲、そしてかんしゃく玉に爆竹。これらは護身用のアイテムだ。

 心優しい僕にしてみればこんな野蛮な道具は使いたくないのだが、めんどくさくなると

玄関の戸をいっきに全開にしてソファーへ戻り、座ったまま飛び道具の雨嵐だ。そしてパ

チンコを取り出し火薬の入ったかんしゃく玉を近所の塀に打ち付けて威嚇攻撃をし、時に

は直接お見舞いしてやる。それでも帰っていただけない場合は、中国の爆竹に火をつけて

外へほっぽり投げてやるのだ。すると怖いお坊ちゃん方は姿を消してくれるのだが、気が

すまないお坊ちゃん方が多く、迷惑なことにまた戻ってくるのだ。すると手には角材や鉄

パイプやレンガなどを握り、中国の太鼓のバチを振り回し、僕の可愛い顔にぶつけるつも

りでいるのか、鉄の如く磨き上げた土だんごを握っているお坊ちゃんもいる始末である。

 しかも最後には「エフ、出てこーい!」などと身震いするほど恐ろしいことを言う。僕

としてみれば常時十人以上はいる連中の前に好きこのんで出て行けるわけないではない

か、できることなら明日に延ばしてくれればありがたいのだが、気の短い彼らは待ってく

れない、その時代に携帯があろうはずもなく仲間を即座に集めるわけにもいかない。僕は

観念して外へ飛び出しお坊ちゃん方をぶっ叩いてやるのだが、彼らが我が家の境界線を越

えられないのにはもう一つ理由があった。
 
 当時、中華街周辺で様々な事業をしていた父は、別にも事務所を構えていたため我が家

の事務所は事務的な機能はしておらず、父の仕事に関わる人たちの憩いの談話室のような

状態で、やたらと人の出入りの激しい家であった。それこそ僕がいない時に家の前をうろ

ついていたりすると、鬼瓦のような顔をした気の荒いトラックの運ちゃんや、港の船舶関

係の男たちと混じって社長などと呼ばれている父までもが、怖いお坊ちゃん方をむりやり

事務所の中にひっぱりこんで、暇つぶしと酒のおつまみがわりの餌食として可愛がってし

まうことがあるのだ。しかも、父などは一風変わり者で、生まれは浅草の江戸っ子で江戸

弁と浜弁が交じり合った言葉を使い、声がでかい。しかも大正生まれにしては背が高く肩

幅が広く、シャツの襟を背広の上に出し、ハンティング帽に薄色の度つきサングラスを掛

け、足底を地面にこすりつけながら偉そうに歩く、父と街中を歩いていると怖そうなチン

ピラのお兄さん方が寄ってくる。というか父が寄っていくのだ。そしてすれ違いざま「ば

っかやろう! 金持って来い!」と、とんでもない挨拶をする。その光景たるやどちらが

それ者なのか判らなくなる。だからかしばしヤクザ者と勘違いされることと、指の先が一

部欠如していたことと何か関係があるのだろうか、僕は父を不思議な思いで見上げてい

た。しかしそんな父も子供を見ると目が輝き、からかってばかりいて元来ののんき者のお

人好しは隠せずにいた。

 そんな男どもが頻繁に出入りしている家である。殴り込みに来た怖いお坊ちゃん方は狂

犬の如く家の前をうろつき僕の出方をじっと伺っているのだ。

 それでも彼らが度々やってこれたのは僕の母の存在が柔らかだったからだろう。母は人

種差別的思想を嫌い誰にでも公平に接し、誰でも家に入れてくれる。家にやってきた連中

が鉄パイプや角材を握っていようが、レンガを担いでいようが母の目から見たら僕の遊び

仲間程度の意識しかなかったようで、まさかこの少年たちが自分の息子に敵意を持ってや

ってきているとは思ってもいなかったのだろうが、その頃になってやっと気づいたのだ。

 まったくをもって非常識な父に比べ常識や思想も正反対な人である。大きなお世話かも

しれないが、その頃の僕にはヤクザな父とお嬢さん育ちの母が何故一緒にいるのか不思議

であった。僕の推測ではお見合い結婚だったらしいから、父の言葉巧みな話術にまんまと

騙されたにちかいない。

 そんな母の日常は職人たちの食事の用意をし、事務所に出入りする仕事関係の人たちの

相手をし、犬や十匹以上いた猫の世話をしたりと忙しく動きまわっていた。しかし女性に

は珍しく理数系にめっぽう強い人で、若い頃には学校の先生を志していたほどのインテリ

だったらしいのだが、青春期の混乱の最中夢を実現することはできなかったようである。

 そんな母の気持ちとしては僕を勉強のできる文学青年的な方向に育てたかったようで、

忙しい合間をみては僕の通う小学校に顔を出し、PTAの役員、親睦会、運動会、遠足と

ありとあらゆる行事に参加し、毎日のように僕に勉強の基礎を教えこもうとしていたが、

教えれば教えるほど母の悩みは大きくなり期待はことごとく裏切られていった。

 僕は仲間たちとの遊びと喧嘩に明け暮れ、それは年々エスカレートするばかりであっ

た。そんな僕をみるたびにお嬢さん育ちの母は悩み、ため息をつき、父を恨む日々を送っ

ていたのだ。何処をどう間違ったのか、母の影響を素直に受けていれば文学青年も夢では

なかったのだが、どうやら一人っ子の僕は母よりも父とこの中華街の影響をどっぷりと受

けて育ってしまったようである。

               ・・・・・プロローグ 完・・・・・         


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 36