シャッ―― 闇殺士の黒装束に胸から腹部にかけて、切れ目が疾った。 さすがの闇殺士も冷や汗をかいたかも知れない。左手から横一文字に襲ってきたシャリフーの軌道が、バックスゥエーで避けた闇殺士の顔付近で、直降下したのだ。通常ではありえぬスピード、ありえぬ角度の剣捌きであった。 しかし、この闘いは常人たちのものではない。驚異的な達人同士の戦闘なのだ。 下に切り払った銀弧はすかさず返して闇殺士の右脇腹へと吸い込まれる。 ナーメラムは辛うじてそれを短剣で弾いた。 一方的なように見える。誰が見ても闇殺士が攻めあぐねて受身に回っているとしか思えぬだろう。 衣服が切れた胸元には、わずかに血が滲んでいる。 傷を受けたのは一年振りくらいだろうか? ふとナーメラムは、この場には余計なほどの余裕で思い返していた。が、さすがに自分を諌めた。一条たりとも傷を受けるのは、屈辱であった。 遊びが過ぎたか。 条件が悪ければ、もっと早い段階で積極的な攻撃を組み立てていた。不確定要素の危険は多いが、その半面自分のペースを作れば、攻撃は多彩で鋭さを増す。 しかし、今回の闘いは一対一。相手の技術と戦い方を味わうことができる。それらを吸収できなければ、惜しいという気もある。しかも、愉しみながらそれができるのだ。これだけの獲物、これだけの好機、望んで手に入るものではない。 銀弧は波のように繰り返し変則的な攻めで閃き続ける。上で銀光が翳んだ瞬間、下方で剣腹を見せ、それに反応した途端に真横から斬撃が襲ってくる。ナーメラムはそれらを得意の体術でかわし、あるいはミニシミターで払った。しかし、完全には退け得ない。その証拠に、いつの間にか、いく条かの切り傷が彼の黒装束に刻まれていく。 が、恐ろしいことはその腕だけではない。その攻撃はそれぞれが、巧妙な牽制を織り交ぜながら段階を踏む最適な決定打を狙っている。素人のように一気に致命傷を狙うような雑多な攻めではない。例えば、あるナイフの達人は先ず相手の手首の腱を切り、その返す一撃で頚動脈を絶つ。つまり、瞬間的なこととは言え、先に相手の攻撃力や機動力を減じさせておき、極力有利な環境を作って止めを刺していくのである。そうした段階を踏むことによって、防御も疎かにならない。様々な要素を考慮すれば、一撃でも相手の攻撃を受けるのは避けた方がよいのだ。ただし、ある程度のレベルでは先手必勝・一撃必殺は確かに効果的であること、付記する。 「どうした、我が攻めに手も足も出ぬか?」 ムスラクは揶揄するように声をかけてきた。 「焦りは禁物です。もう少し愉しませて下さい。これほど美味な前菜は久しいもの」 そう言ったナーメラムの眼前紙一重で、シャリフーの残光が美しいほどに尾を引いて消える。 「感心はしてるさ。俺の攻撃をそれだけ受身に回って、血を流したのは胸の浅傷一ヵ所のみ。普通は考えられねえよな。だから余計に腹が立つ。 守りに専念して、一体、何企んでんだ?」 「何も。言うなれば戦闘マニアなのでしょう。正直、時々自分でも持て余し気味ですよ」 苛烈な連撃が闇殺士を追い込む。その刃筋は、ただ、迅く変幻自在のみにあらず、相手の行動選択を狭めて行き、隙を誘う。 広めの廊下とは言え、体術がものを言う闇殺士には甚だ閉塞的空間だ。最小限の動きで避けてはいるが、やはりいつもに比べて剣で弾く回数が圧倒的に多い。 「お前が言うとそれらしく聞こえる。では、冥土の土産に存分楽しめ」 「冥土はともかく、言われなくともそうさせていただきます」 ガキッ! 初めて、二人の剣が激しく噛み合い、動きが瞬時硬直する。 が、流れるような手際で、ムスラクは刃を捩じり、切っ先を闇殺士の顔に突き立てようとした。 ナーメラムはそれをさっと左に避け、際どいところで躱した。しかも置き土産を忘れていない。左手首の裾裏にストックしていた手裏剣を相手の顔面へ放っていた。 正に虚をつかれた形になった。あの瞬隙に逃げと攻めを同時にこなすとは。 ムスラクは闇殺士が身を引くと同時に、追撃しようと一歩踏み出していたのである。 その一歩がもたらした状況変化は、闇殺士の何気ない最少の動きで、投擲された手裏剣を完全に避けるのには、到底不可能な“間合い”を作らせたのである。すなわち、カウンターであった。 明らかな朱の斑点が白い法衣を汚した。 必死に顔をよじったが、手裏剣の軌道はムスラクの右頬を深く抉っていた。 流れ出る血は襟元を無遠慮に赤く染め上げていく。 唸り声と共に間合いは自然と開いた。 「先に一つ言っておきます。私は人間相手に毒は使いません。キュア・ポイズンは不要です」 正に神聖魔法の祈りを始めようとしたムスラクは、闇殺士の突然な言葉に動きを止めた。 「そりゃ本当かね」 「少なくとも、私はそうです。闇殺士の名にかけて誓いましょう」 「ほう、信じていいんだな」 と、聞きながら、命のやり取りをしている相手に変な確認だと思ったが、名にかけて誓うってところがいい。闇殺士は、駆引きや虚を衝くことはしても、純粋な戦闘で相手に嘘を言うような真似は基本的にしないものだ。 「戦闘マニアと言ったでしょう。毒など使えば、その楽しみが半減してしまう。それで私に何の得がありますか?」 ムスラクは闇殺士をじっと見遣った。 なるほど、腕は特級だが闇殺士としちゃあ少しイカれてるようだ。 煙たげな笑みを過ぎらせて傷そのままにした。深いが見た目ほど大したものではない。キュア・ポイズンと違って、ヒールは傷が癒えるまで継続して魔法発動していなければならず、闇殺士を向こうにしている今は到底無理な話だ。 しかし、正直驚いた。 闇殺士の腕にである。 確かにブレッスナがてこずるだけのことはあるだろう。特に動きが尋常ではない。その滑らかさを帯びた速度と反射がだ。フォムトーンの間合いから完全に逃げたと聞いた時は、笑って相手にしなかったが、その態度をブレッスナが怒ったのも今は頷ける。 すでに十五分は経っていた。戦闘を始めてからである。一般的に言う手練が相手なら、最低五人は殺っていてもおかしくない時間である。 相手がほとんど専守防衛を決め込んでいることを考慮しても、闇殺士に与えた傷は胸元の一つだけ。練達揃いの仲間同士で闘っても、十五分あれば、いずれにせよケリは着く。ムスラクにしてみれば、納得がいかない。いかないが、それが現実だ。そろそろ本気に相手の実力を認めねばならない。 「分かった、認めてやるぜ。ブレッスナの言う通り珍しいほどの使い手だ。ここまで徹底して俺の攻撃を凌げる奴は、多分仲間内でも一人いるくらいだろう。それと何か企んでいるようだ。そろそろ本気でかかって来いよ。俺もそうするからよ」 闇殺士は涼やかな口元に幽かな微笑を燻らせた。 「・・・・承知しました」 それだけを言い残して、闇殺士の両眼がうっすらと閉じられた。 ?! 何だそりゃ。 何をおっぱじめようってんだ。・・・!そう言や、ブレッスナが言ってたか。奴は目を閉じて闘えるって。が、その利点は何なんだ? ムスラクはたたらを踏む。 眼前の闇殺士の雰囲気が明らかに変質し始めた。気配が読めない。と言うより、どんどん希薄になって、ほとんど感じられないのだ。視認しているが故に、何とか捉えられているが、暗中で見失えばどうなるか。考えただけでも戦慄を禁じえない。しかし、ここには光がある。互いの気配操作故、動きが読み難いのはこれで五分だ。 平淡で変化の少ない顔が、凶猛な表情を浮かび上がらせた。 さあ、来い! 見せてみろ。自惚れの強い若造よう。 わずかに闇殺士の体がブレたと思った瞬間、黒い風影がムスラクに襲い掛かった。 舌打ちをくれながら凄まじい足捌きと、驚異的なほど変幻自在に舞うシャリフーの軌跡が、筆舌に尽くし難いナーメラムの総攻撃に対抗する。 二人の間に火花が無数に散り、互いの身体に切り傷が忽然と現れていく。 銀弧がありえぬ角度から迸り、片や直線的な銀閃がいく条も瞬いて、それに応じた。 ムスラクが効果的に放った蹴りで、少し間合いが開いたが、両者の動きに一時の停滞もない。弾かれても磁石のように引き合い、接近する。そのまま、絶えず流動して牽制し合う。少しでも隙を見せれば、銀の光が身を掠めて出血を強いた。 しかし、それら際限なく続くかに思わせる弧と条のせめぎ合いは、あらかじめ示し合わせた演舞のように見事に攻めと受けの型がはまり、生と死を賭した闘いだという現実を希薄なものにさせる。 闇殺士の動きは時として、まるで羽根のようだ。銀弧が迫れば、まるでその風圧に押されるかのように一定の距離が開き、刃風が残滓と化すと同時に至近に吸い付いてくる。狭いはずの通路は、闇殺士の機敏で圧倒的な動きを制限しているように見えない。まるで大広間にいるようにすら思える。後背に視覚を備えているかの如く、壁に追い詰められても擦れ擦れで横にスライドし、あるいは壁を蹴って跳躍する。空間把握能力に隔絶的開きがある。驚かされるのは、凄絶と思える体術だけではなかったのだ。 しかし、何よりも闇殺士の攻撃に精妙さが益々加わって行くことこそ最たる脅威だった。 どうなってやがる! ムラスクは心中毒づいた。 彼の気配の波は、よりダイナミズムを強化させ、動きの読みは明らかに難しくなっているはずだが、闇殺士はその動きにピタリと合わせてくる。 どういうことだ? こっちは相手の乏しい気配に翻弄させられているってのに。付いて行くのがやっとだ。そこまで手の内を隠してやがったか? しかし、最初は確かにこちらの動きに追随していなかった。と言うことは、つまり、あの徹底した受身の間に――。 ビンゴである。 あの受身はただ遊んでいただけでも、相手の技や闘い方を吸収していただけでもない。その攻めの過半を見切り、それに応じた闘い方をいく通りか頭の中で組み立てていた。 ナーメラムは自分の技術やセンスが優れているという事を自覚しているが、それらのみで不敗を誇示できると思うほど理想家でない。 実戦は最良の実地訓練の場であり、そこで良質な教材に出会うことはまたとないチャンスである。無論、ミスはそのまま自分に返って来る危険極まりないセミナーではある が、それ故に得るもの大きい。 実戦の中で、少しでも余裕が存在するならば、ナーメラムはいくつかの戦い方を試し構築していく。それが彼の強さの一因である。傍目には天才視されることもあるが、自身では天才に及ぶ才ではなく、秀才止まりだと自己完結している。本当の天才と言える人物をダナキ内で数人知ってしまっているからだ。その上で、天才に近付くための努力を、自分なりに死力をもって重ねているのである。それらのもたらした結果が、天才視されるほどの強さにつながっている。その点、己を知るが故の努力の才人と言えるだろう。 闇殺士はその受身の間に、ムスラクの気配パターンや癖と、行動の連繋をほとんど看破していた。しかし、ムスラクの方は突如影のように希薄になった闇殺士の気配を捉えることができない。わずかな差でも決定的チャンスになってしまう達人同士の闘いでは、その一点だけでも闇殺士の大きなアドバンテージとなってしまうのである。 が、これは別途恐るべき布石でもあった。 ナーメラムは本来、相手を的確に攻略して自身の純粋な技術とセンスだけで斃したいというタイプだ。しかし、その時の状況や相手の特殊な力によって、自分の嗜好で対処するのに当然限界がある。その場合には、こちらも一捻りが必要となるだろう。 ナーメラムはグリアと称される闇殺士専用の魔具を扱えるタイプの闇殺士だ。扱いの難しさから大抵は、一人に付き一つだけだが、彼は複数のグリアを操れる。もし、その中に闇をもたらすグリアがあったならどうであろう? ムスラクは今、気配の希薄な闇殺士を追うにほとんど視覚に頼らざるを得ない。その一挙手一投足を眼から入る情報で反応し、予測している。ナーメラムの動きにそれでも何とか対応しているのは、やはりムスラクも超人的と評価し得る証である。が、視覚のみで闘っていた次の瞬間、それさえ失った時は――それこそ秒単位で勝負は決する。仮に布石がなくとも、闇の中で闇殺士と闘り合うことが自殺行為に他ならないとは、世の常識だ。 ムスラクも何かを隠している。ナーメラムとしても、その何かが手に負えないものである時の保険であり、無闇にグリアを使うことはない。そう、必要に迫られた時だけだ。 純粋な戦闘を愉しむと言うことは、敢えて苦労を背負い込むこと、近道を捨てて遠回りをすることであった。実戦は経験を高めるための宝庫であるが、ナーメラムのように過ぎた余裕を持ち込むのは、合理主義精神に程遠い。が、それもまた彼たる所以なのであろう。 ナーメラムは受身に徹した時、ムスラクの五割を見切った。その時点で攻勢に転じたのは理由がある。単調に長引いて、戦いがダレることを忌避したのだ。経験上、いかな闘いでもそれは大なり小なりある。ダレ=質の低下だ。彼にとって、それは許されざることだ。格別な緊張感が持続してこそ、最高の戦闘劇を共に演じ得る。無論、戦術的に焦りダレてきた相手の隙を突いて、一気に片付ける手もある。が、少なくともこの戦いにそれは必要ない。 また、相手の手の内を全て見切ってしまうと戦いの組み立ては楽だが、やはり面白みに欠けるし、優位さ故の油断が出る。そんな馬鹿げた理由に足を掬われることほど、哀しいことはない。 もう一点、不確定要素を残しておかず、丸裸にしてから闘ってばかりいると、それは答えの分かった練習と同じであり、実戦的な即時対応力が損なわれる――命取りだ。 しかし、それらの現実的な理由全ては、やはり戦闘マニアとしての娯楽的意識に集約されるだろう。 共通して冷徹極める闇殺士には似合わない、過分に楽しむという性情故に大きなミスを呼ぶ可能性も確かに高い。実際、ブレッスナを逃したのもそれが原因である。気付いた時には手も届かない。 彼自身、その度に苦慮するものの生来の特質と半ば諦めに身を任せている。 ナーメラムはそうした合理性と非合理性の矛盾を渾然とさせた、しかし、それでいてハイレベルな戦術を組み上げながら、ムスラクの懐胎する未知の力を要求するように全身から繰り出す攻撃に熾烈さを加えていった。 縦横無尽鋭角的に疾る無数の銀閃は流星群のようで、ムスラクの銀弧が描く曲線美と対照的だ。どちらの剣捌きにも一長一短はあるが、いかにその長を生かし、短を減じるか、その者の巧さが問われるポイントである。自分の技や闘い方を完全にものにしろと、よく言うのは、そう言った意味である。 生と死、誇りと意地、技術と戦術、鋼と鋼、それら全てがぶつかり合い、凄まじくも美しい剣舞の競演。それら数え切れぬ合数の斬撃を交じ合わせ、可視不可視の闘いは佳境へと入っていく
(次回予告) 佳境に入る闇殺士たちの闘い。ついにムスラク無敵の戦闘技を発動し、応じてナーメラムも秘技を繰り出す。そして、決着――血だまりの中で最後まで立っていたのは、誰か。
|
|