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作品名:ブラマリール・コウン 〜異国の闇殺士〜 作者:榊 星燿

第1回   獲物
 時は深夜。
 静寂が辺りを覆っている。
 雲の切れ間から顔を覗かせている月光が地面に焼き付けた梢の影は、夜風に吹かれてわずかに揺れる。その時だけ静寂は破られた。
 郊外にある白壁の屋敷はその光を受けて背景の闇にくっきりと浮き立っている。それを取り囲む梢は、石壁を越えて暗緑色のガーディアンの如くそびえていた。
 この国には、ペトスと一般的に呼ばれる官僚貴族が存在する。貴族とは言え、文官官僚に与えられる地位は最下級のものである。そうでありながら、様々な要因で、中には上級に匹敵する力を持ち、暮し向きも騎士などの下級貴族より遥かに裕福な者も少なくない。そうした者には大抵の場合、腐敗臭が取り巻いていた。
 とあるペトスの別邸である。ここには暗い噂があった。決して、表には出ない類のものだ。
 だが、情報というものを完全に封鎖させることは難しい。この屋敷だけに限定される内容ならば、まだそれほど困難でないかも知れない。しかし、そうではなく、ここは言わば仮初めの宿に過ぎない。水面下とは言え、人の流入がある。
 危険だが価値ある情報は表に出ずとも、闇伝いに漏れるものだ。貴族の陰惨な抗争はどの国にでも存在し、どの時代でも同じである。
愚かしいほどの繰り返しが恒久的な儀式と言わぬばかりにその勢力を誇示する。権力者に付き物のゲームと表現すべきであろうか。参加するもしないも個人の自由。だが、状況によっては強制的に引きずり込まれる危険を孕む、彼らの人生そのものを賭けた勝負事。そこは影の勢力すら跋扈する裏世界(ブラマリール・コウン)の一部。ブラマリール・コウンとは、ラッカス地方の古語で“裏の階層”を意味する言葉である。当時、闇のフィクサーとして諸外国にまで絶大な影響力を有していたブラマリール家の隠然たる地位を模する造語であり、現在では一般的に表の人間の知り得ぬ裏社会全般を指して言うことが多い。
 ザアッと木々が波打つ。
 風が強くなってきたようだ。
 雲の流れも速い。
 月光の勢力は刻々と弱体化していた。
 次々と厚い雲が押し寄せてくる。
 雨の来訪もそう遠くはあるまい。
 この屋敷から漏洩した内容も根本的には多くのものと違いがない。が、少し質に相違があった。その貴族が踏み入れてしまった危険は、彼らだけの特定社会で共有するには荷が重過ぎるものであった。貴族もしょせんは表の住人。無論、中には信じ難いほど闇に染まった人物も史上に名を連ねている。が、大抵の貴族は裏の表層しか知らない。しかも、真の闇の複雑さを知る者は裏社会の者でも限られる、と断言してもよい。
 この貴族はその落とし穴にはまってしまった。
 舗装された石畳に天から降り来る微かな水滴が所々で染み込んだ。
 月はその姿を消し、いつしか鬱屈とした雲の積層が夜空を支配している。
 町は重い闇に沈む。
 中心地はまだ明かりが多かった。特に宿場や歓楽街は。しかし郊外にある屋敷には、その明かりも観賞用の美しい夜景に過ぎず、自らは影の澱みに一人孤立した白い亡霊を思わせる。
 これから始まる宴に見合う舞台だ。いや、もう始まっていようか。
 魔界の門よろしく不気味で豪奢な造りの鋳物のそれは、その屋敷が招待した者を呑み込もうと静かに鎮座している。太い門柱の上には、禍々しいガーゴイルの石像が門前を見下ろしていた。
 ふと、音もなく一個の影が忍び出でる。
 飄然とした人影は二匹の魔獣を見上げた後、門の奥にある庭を透かし見た。
 見据えたまま考え込む。
 いるべきはずの護衛がいないのである。
 情報では門の内側に二人、庭にも二人いるはずだ。隠れてはいない。気配が感じられないのだ。その者の知覚能力を掻い潜るには、特別なレベルに達しなければ不可能である。
 その影は黒装束に同色の外套を纏っていた。それのフードを目深に被っている。そのため、鼻梁から上は隠れてしまって見えない。そこから覗く肌は少女の如く美しく白皙だ。そして、その華奢な身体つきから男か女か判別もできない。
 不意に影は沈むと地面すれすれに飛ぶ燕のように疾駆する。そして、鋳物の門を事も無げに垂直に駆け上り、内側へと舞い降りた。
 この間、常人の耳にできる音はわずかたりとも発していない。
 白皙の美貌は少し唇を引き締めた。
 そして、用心深く辺りに注意を巡らす。
 嗅ぎ慣れた臭いが彼の鼻を掠めたのだ。
 しかし、微かなものであり、路上で起こった喧嘩の残り臭ということもある。もちろん、この敷地内で何かがあったとも考えられる。ただ、ここで通常の戦闘があれば血臭の量がもう少しあってもいいはずだ。が、特別な技量の持ち主がそう意図すれば、血などほとんど流さぬことも不可能でない。いずれにせよ、警備の不在がそのまま異常の発生を物語っていた。何かあった、と考えておいた方がよい。
 やがて、その人影は猫を思わせるしなやかな動きで物陰から物陰へと素早く移動し始めた。その妙なる暗躍ぶり故に、例え傍に人がいても気付くことはないであろう。
 しばらく進んでから一度立ち止まり、心機を凝らして気配収集に専念した。
 だが、やはり建物の外では何も感じ取れない。
 人影は光量の低下と共に灰色にくすんだ屋敷をじっくりと見上げた。そして、軽い跳躍で2階バルコニーの端に手をかけ、するりと体を引き上げた。
 無造作に見えるが無駄のない動きで、掃き出しの窓の隅に移動する。内側は閉められた厚手のカーテンのせいで何も見えない。が、その者の知覚能力は窓を透過して人の気配を探った。
 少なくともこの部屋は無人だ。
 確かここは入浴場のはず。この時間は当然人もいない。
 人影は窓にそっと掌を押し付け、しばし待つ。いかなる技を使ったのか、窓の下の方で鍵の開く音がした。その音も何かに包まれていたようで、ほとんど無音に近い。そして、軽く押しやると窓は開かれたのである。
 そのまま躊躇なく歩を進めていく。
 廊下へ出る扉をわずかに開ける。ここからは気配探知に緻密さを加えた。常人でない者が、すでに進入している可能性があるからだ。警護関係が全くいないのはどう考えてもおかしい。斡旋者からの情報では、この屋敷の内外で相当な使い手がごろごろしているはずなのだ。あくまで一般レベルに比してのことだが。
 部屋を出た。
 前方に廊下が続いている。等間隔にランプが浩々と灯っており、先の折れ曲がる角まで見渡せた。扉のある反対側の壁には豪華に額に入れられた絵画が点々と飾られている。トゥレビンのサインがある。古今の画家としては最も成功した者の一人だ。相当な価値のあるものであろう。だが、そんなものには興味はない。
 しばらく進むと玄関のロビーを見下ろす通廊に出た。かなりの広さがある。そして、誰もいない。
 これは決定的だ。主人がここに逗留する場合には、何人もの護衛を連れてくる。ロビーにすら誰も控えていないと言うことは、情報が漏れて自分が来る前にここを引き払ったか、待ち伏せかだ。それとも、別の客が来訪したか?
 一笑に付した。私における情報が漏れることはありえない。今回の仕事はいくつかのルートを経て来たものだが、あるとすれば、組織内部のリークか依頼主の筋しかない。が、この任務を知っているのは片手にも足らない。組織は除外して、依頼主側の二人か。本人は意識せずとも結果的に漏らしていることがある。また、彼らの館に間諜が忍びこんだと言うことも考えられる。待ち伏せはいいが、逃げられていたら事は振り出しに戻る。厄介な話だ。
 しかし、いずれにせよ結末は同じアリアを奏でる。私の手によって。
 3階への階段を上っていた時である。
 人影は動きを止めた。
 神経を研ぎ澄ます。
 わずか数瞬だ。だが、確かに抑えられた気配が感じ取れた。口を歪めたくなるほどの手練だ。ちょっとした気の緩みが露呈の原因であろうが、今は完璧に機能している。自分と同様に凄絶な修練と才覚の賜物だ。昨日、この屋敷を取り巻いていた警護の者とは格段の差がある。ここの貴族の護衛にもこれほどの手練はいまい。では、私のために外から雇った刺客か? これは、おそらく待ち伏せ――生かして捕らえる必要がある。
 人影は“存在潜行”を始めた。
 存在潜行――裏業界の者の総称である影者、その中でもトップクラスに位置するエリートの闇殺士やウォル・ストーカーが修得している独特の気配消去法。自らを死者として自己暗示をかけることから始まり、発汗・呼吸等複数の生理現象まで制御下に置き、最終的には極言すると身体機能を半仮死状態レベルにまで落とすという四行程の身体技法を、修練によって瞬時になす。裏業界の秘法故、厳密な方法は知れていない。が、仮に知れても素質がなければ、当然近付くことすらできぬ難度の技である。この無気配行法を維持しながら、背反的にも自己の戦闘能力をどれだけハイレベルなものにできるかが、その者の才覚と言えよう。影者の中でも特に暗殺を美学とする闇殺士の価値は、その点に集約されると言っても過言ではない。
 つまり、その人影は闇殺士かウォル・ストーカーだと考えられるが、先ず前者であろう。
 正しく影者の頂点に立つウォル・ストーカーは極少数の闇殺士と比べてさらに劇的に希少である。影者のすべての能力において傑出した才を有し、かつ戦士を凌ぐ圧倒的な戦闘力を誇る超人的なクラスで、そう認められるのは一世代に二・三人いれば多いくらいなのである。
 ウォル・ストーカーは一般的に特殊技を好まない。徹底して鍛え上げられた肉体と誰もが習得し得る技術を誰も触れ得ぬレベルまで究め、それを自らの天才的なセンスで効果的に駆使することを真骨頂とする。その意味、闇史上に語られているウォル・ストーカーは、影者の中でも最も職人気質を有す者が多い。
 人影はこの屋敷に侵入した時、通常技では考えられない方法で窓の鍵を開けた。闇殺士には異能の技を操る者がいる。しかも、おそらく二十前後であろう年齢は、ウォル・ストーカーにしては若過ぎる。故に、この人影は闇殺士と判断できよう。
 美影の闇殺士は壁に沿って滑るように無音で闇潜行する。彼らの隠密能力は別格扱いされ、闇潜行と呼ばれることが一般である。影者のパワーフィールドである闇に潜って暗躍することから、そう表現されるのであろう。
 そしてまた、彼らの無音の足取りは、しなやかで音を吸収する構造を持つ猫の足になぞらせて、猫駆けとも表現される。
 その名の通り歩くのではなく、かなりの素早い動きで移動する。その動きは流れるような滑らかさを纏う。
 時折、瞬間的に気配の残り火が瞬いた。この辺が限界であろう。相手は、少なくとも闇殺士ではない。もし、そうであれば気配消去がもっと完璧だ。だが、練達の闇殺士の中には、気配操作を武器にして獲物を罠に掛ける者もいる。
 闇殺士は不意に立ち止まった。
 その横手に寝室と思われる部屋の扉がある。
 紛れもない血臭だ。それもまだ新しい。
 黒装束から伸びた手は白磁を思わせた。細く繊細な指が、取っ手を下げて扉を開ける。
 廊下から流れ込んだランプの明かりが部屋内を薄暗く照らし出す。闇殺士にはそれだけでも十分過ぎるほどに状態を視認することができた。
 大きな部屋だ。おそらくこの屋敷の主人の居室であろう。
 先ず扉のすぐ近くに血塗れの男が一人転がっている。衣服の下に鎖帷子を仕込んだ屈強の護衛だ。すでに息は無い。一閃の下に喉を斬り砕かれている。その傷口からして、 厚手の刃物――アックス系であろう。
 臆げも無く扉から入ってきた襲撃者を不意打ちに突き殺そうとしたものの、易く躱されて致命的な逆撃を喰らったのだ。
 美影はその戦闘シーンを忠実にイメージした。そこから襲撃者の戦闘力を分析していく。
 今、魔物の如く屋敷を徘徊している者は、間違いなく刺客だ。それも私をターゲットにしているものではなく、この屋敷の住人たちを抹殺するべく遣わされた死神。
 影に同化しつつ、部屋に滑り入った。
 さらに続いて二人が物言わぬ躯と果てていた。どちらも一撃である。挟撃にかかって来た二人を、先ず左手から料理する。体を横に捻り、振り下ろされるブロードソードを避け、カウンターで顔面に斧を叩き込む。そして一瞬の澱みもなく、一足跳びの返す一撃で向かって来たもう一人の頭部を幹竹割りにする。
 迅い! 恐ろしく迅速な攻撃だ。しかも鮮やかで無駄が少ない。やはり相当な使い手だ。
 そして、この屋敷の主人は数人の護衛らしき男と共に部屋の奥でうつ伏せのまま倒れていた。胴には頭がない。背後から頭部を一薙ぎに刎ね飛ばされたようだ。
美影が微かな苦々しさを口元に過ぎらせた。この男がターゲットだったと言う訳だ、私と同じく。
 ・・・この屋敷には他に気配が感じられない。と言うことは、もうすべて殺られたか。
 こうした事例も決して珍しいことではなく、敵の多いターゲットは様々な経路から刺客に狙われていることも少なくないのである。
そう言えば、稀に見る凄腕の護衛を最近雇ったと言う情報もあったが、この結末では、大したこともなかったか。
 では、問題は簡単だ。今この屋敷を今だにうろつく愚かな刺客を私が始末すればよい。それで、依頼は完遂だ。
 闇殺士はわざと大きな音を一度だけ立てた。そして、存在潜行から稚拙な気配抑制に切り替える。この屋敷の護衛がまだ残っていると思わせるためだ。
微かな気配の揺らぎを感じた。そう遠くない。
 未熟者め。
 気配が消える。
 が、その者の接近は確かに感じた。
 扉は開けたままだ。無論、何らかの反応はあろう。
 近い――
 5mもない。ここまでくれば、動きは手にとるように把握できる。例え、気配を抑えていても、そのレベルでは闇殺士に通用しない。
 扉の横で停止する。
 その途端、闇殺士でさえ瞠目するほどの冷徹な殺気が扉越しに突き刺さってきた。そして静かだが、傲然とその者は部屋に入ってきた。
が、悄然と立つ異風の姿を目にして動揺の走るのが感じられた。自分を待ち構えていたことを即座に知ったからだ。
 闇殺士は薄紅を引いた処女の如き可憐な唇から言葉を洩らした。
「どうやら獲物が替わったようです。しかし、憂慮には及びません。結果は死体が一つ増えるだけです」
 意外にもその声音は、この場には到底そぐわない清涼感を伴った若き青年のものであった。
 対する刺客はまじまじと美影を見据えた。目の前の相手を量りかねているのは明らかであった。
 また、闇殺士の方でも意外だったのは相手の風体にある。白い法衣姿なのである。しかも、胸の部分に記された紋章は見たことのないものだ。闇宗教の秘密結社の類か?
手にしている珍しい武器は片手鉈斧のイマックスファルトだ。扱いは難しいが、まともに当たれば肉ごと骨が吹っ飛ぶ。その刃には血糊が着いているものの、法衣には一切の返り血が着いていない。
 蓬髪で肌は浅黒く、薄い唇は酷薄さを表わしているかのようだ。目は猛禽のように鋭い。
「闇殺士か?」
 ざらつくような声に闇殺士は美しい微笑を返した。
「御明察です。それが分かるだけでも評価に値します」
「護衛の者か?」
「いえ、同業のようです」
「そうか、お前がもう少し遅く来ておれば、無駄な死人を出さずに済んだのだが、姿を 見られた以上、運が悪かったと諦めてもらおう」
「貴方のことがいたく気に入りました。それだけの自信はなかなか持てないものです。しかし、残念なことに私の方も貴方を見逃す気もなければ、殺られるつもりもありません」
 法衣男の双眸に殺伐とした黒炎が渦巻いた。その瞬間、男は跳躍していた。
 闇殺士の頭部に唸りを立ててイマックスが吸い込まれる。
 が、それは残像に過ぎない。
 しかし、弧を描く刃の軌跡は過たず、闇殺士の動きを追っている。
 美影は間一髪でそれを躱した。
 そして、喜色に満ちた声を玲瓏と転がす。
「素晴らしい、真の命のやり取りは久々です。一方的な殺戮にも飽きがきていたところ、楽しむと致しましょう」
 ロゼイン以来か、と闇殺士は心中で付け加えた。彼が知る影者の中では最高の存在で、“刃研ぎ”の影名を持つウォル・ストーカーである。あの時は状況により、互いに退くことになったままだ。
 刺客は一気に間を詰め、問答無用で胴を薙いだ。イマックスは主に忠実らしく底冷えのするような恐ろしい唸りを吐き残していく。獰猛な獣をもう一匹相手にしているような感覚だ。それだけ使い手の腕が尋常でないことを証明している。
法衣の攻撃がさらに熾烈さを増した。とにかく刃速がでたらめに迅い。さすがに美影の方も無駄口をたたく余裕がなくなる。
 避け手にまわっていた闇殺士が一転して、両手に持った小さな手剣をひらひらと舞わせると法衣が数箇所裂けた。
 しかし、下の皮膚まで届いていない。
 それに応じて、引いた潮が返すように迫力ある連撃が、ごうごうと唸りを立てながら止め処なく闇殺士を襲う。一瞬も気を抜けない。わずかな遅れが致命的な状況をもたらす峻烈なる切迫。
 一旦、間合いを取るために美影は大きく後に跳び退った。その時、フードが捲くれて信じ難い美貌が見て取れた。女でもこれほどの美形はいないと思わせる顔である。しかし、法衣の刺客が驚いたことは、闇殺士がほとんどその両眼を閉じていたことである。
「貴様、盲人か!」
 その声には畏怖が含まれている。そのハンデをもって、今自分と対峙しているのである。
しかも、小技とは言え、相手の方がこちらの衣服を多く傷付けている。そのいくつかには血が滲んでいた。
驚愕に応じて、風のような声が吹き抜ける。
「いいえ、全くの正常です」そう言って、目を開いた。極北の氷河を思わせるアイスブルーの眼光が閃く。それはさらに、女装すれば絶世の美女としか言いようがない完璧さを備えさせた。「こうして一つの感覚を抑制し、他の感覚器官を鍛錬しているのです。闇には視覚は無力ですから」
 そう言うと、また瞼が下ろされた。微かな隙間は空間と障害物を最低限、把握しておくためだ。
「噂には聞いていたが、闇殺士とはそれほどのものか。少し見縊っていたわ」刺客の体内にひしめく気の内圧が一気に膨張した。「無関係の者に我が力使いたくはなかったが、時の浪費は許されぬ身。冥土の土産に覚えて置け、このブレッスナの戦闘技フォムトーン!」
 イマックスを傍らに放ったブレッスナは手に何も持たず闇殺士めがけて猛然と突進した。
 闇殺士の瞑目がかっと見開く。
 闇殺士としての直感が彼自身の命を救った。
 ブレッスナが陽炎のように霞んだ両手を闇殺士のいた空間で交差した時、闇殺士は部屋の反対側に着地していたのである。
 刺客の手が掻き混ぜた空間は、一瞬ぐにゃりと歪曲し、渦を巻いたように見えた。
 二人は同時に驚愕した。
ブ レッスナにしてみればまさか躱されるとは考えてもみなかった。今の間合いは、この技の完全な勢力圏内にあったはずだ。
 彼は闇殺士の凄まじいまでの体術に心底舌を巻いた。
 闇殺士もその技の破壊力に思わず戦慄を覚えていた。壁と床がごっそりえぐられてズタズタになっているのである。人間が食らえば、瞬時に血塗れの肉塊と化すだろう。
 闇殺士の双眸は薄く半眼に保たれている。
 無言のまま言葉は投じない。
 が、醒めたように凄絶な笑みを秀麗な口元に刻んだ。
 闇殺士の眼光は青白い炎のように揺らいだ。
 と、闇に溶けた姿が一瞬、ブレッスナの視界から消える。
 黒の疾風と化した人影は刺客の左手下方から顔面に向けて、一条の銀光を迸らせていた。
 ブレッスナは自分でも驚くほどの反応速度で、仰け反りながら宙を舞っていた。
 が、所詮、完全に逃げ切れる間合いではない。
 ブレッスナは体術のレベル、特にスピードにおいては眼前の闇殺士に到底及ばないことを身をもって知らされた。闇殺士の手剣は彼の首筋から耳まで切り裂いていたのである。
 猛々しい唸り声を上げながら、左手で空を薙いだ。再び空間が水のように掻き回される。
 恐ろしいことに飛び退った闇殺士の体が、その破滅の領域に引き込まれかけた。
 その隙にブレッスナの体が淡い光に包まれる。解毒と治癒の魔法を自身にかけたのである。暗殺を旨とする影者が毒を使うのは、極自然のことである。闇殺士の手剣に毒が塗られていても何の不思議もない。
闇殺士は再度驚かされた。
 この系統は神聖魔法だ。つまり、修武僧か。
 魔法と武芸に通じている相手は、闇殺士にとってもかなり厄介である。
 毒は使いようによって、魔法を凌ぐ効果を持っているが、彼は滅多なことでは毒の類を使わない。逆に闇殺士で常時毒を使う者は少ないと言える。毒と言う安易な道具を使えば、子供でも簡単に人を殺せる。大半はそれの使用を自分の技と誇りを汚す行為と考える節があった。無論、一方では、積極的に毒を自分の技に取り込んだ闇殺士もいる。例えば、メキドニア国国王マーサルス三世を暗殺した希代の闇殺士ラオ・シャンタイもその一人である。純粋なる忍びの才は史上屈指と評された彼は暗剣術をこよなく愛し、それを戦術的に高めるため、百種の武器を究めたと言われる。そして、そのすべての武器に毒を塗布し、無類の強さを誇った。多数に対する時は、特にその効果は大きかった。その反面、闇殺士に多い特殊な技は修しておらず、彼の職人的な気質と技術志向はウォル・ストーカーに近いものであったらしい。
 はっきり言って、技の切れと機動力は闇殺士に分がある。ブレッスナもそれは認めざるを得ない。
 だが、殺る自信はあった。
 ただ、気にかかっているのは、自分同様に相手が何かまだ隠していることであった。
 闇殺士の攻撃はこれほど短絡ではない。
 だが、彼に迷っている時間はなかった。
 ここに問題の標的はなかったのだから。
 では、リフビヌかタルカッゾのいずれかがが当たりだ。タルカッゾは心配要らぬが、リフビヌはまだ若輩だ。その力ではなく、戦いそのものがである。戦闘力自体なら自分と遜色ない。が、経験不足が難点だ。
彼は利のないこの戦いをさっさと済ませて、リフビヌのカバーに赴く必要を感じていたのである。
 ブレッスナの目が据わった。
 この空間なら完全にすべてを勢力圏内に収められる。最強技ファイダヴガレイ。
 発動すれば、凄まじい威力を発揮するものの、その技には弱点がある。そのエネルギーに相応する神聖力のタメが必要だと言うことだ。
 この戦い、隙は死を呼び寄せる。が、彼は敢えてその危地に踏み出した。
 修武僧は腰を落とし、まるで鍵盤を叩くような形で両手を差し出した。
 部屋全体の空気が冴え冴えと変質し始める。
 高周波が鼓膜に刺激を加えた。
 闇殺士は無形の構えのまま、秘技で先手を刺そうとした。しかし、ブレッスナが血相を変えたのを感じ、その手を止めた。
 攻撃に移ろうとしていた手が、明らかに守勢に回っている。これでは隙をつけない。
 闇殺士は相手の様子を見ながら間合いをじりじり詰める。
 ブレッスナは不意に言葉を軋り出した。
「あれほど早まるなと言い含めたに関わらず、愚か者め」
 リフビヌが殺られたのである。タルカッゾの憮然とした念話がそれを知らせて来た。そして、結果的には遅きに逸したが、助けに行った彼は今だ交戦中だと言うのだ。予想外に相手の数が多く、逃げることもままならない状況だ。一刻の猶予もならない。
「独り言とは悠長ですね。私はよほど舐められているようです」
 闇殺士の揶揄する声が闇から聞こえてきた。今まで間合いを詰めていた姿は霞と消えて渾然としている。戦闘の最中、巧妙にも灯りは一つ残らず消されていた。
「この勝負一先ず預けた。だが、いずれ必ずケリは付ける」
「愚昧事を。これは遊びではないのですよ。誰のことか知れませんが、自分の命を先ず心配すべきではないのですか」
 二条の銀光がブレッスナを掠めた。壁に投げナイフが突き刺さる。
 反撃は問答無用であった。法衣を翻しフォムトーンが壁に穴を穿つ。
 闇殺士は三度跳躍し、放たれたナイフは刺客の渦巻く戦闘技に阻まれ、あらぬ方へ捻れ飛んだ。
 そして、その余波を殿に残し、ブレッスナは窓を吹き飛ばしてそのまま階下へ飛び降りる。
 すかさず後を追う闇殺士は続けて飛び出す愚を危うい所で思い止まった。
 案の定、着地したブレッスナはすぐさま振り返って、牙を剥いた迫力ある笑みを向けた。右手には破壊の力が溜められている。
 そして、その右手が突き出された。
 闇殺士は部屋の奥に飛び退る。
 彼の眼前で恐ろしい光景が現出されていた。
 荒れ狂う力場に触れた物はすべて砕け散り、喜劇のマリオネットよろしく跳ね踊っているのである。
 嵐の収まりと同時に闇殺士は破壊された壁面から下の庭を見下ろした。が、求める者の姿は当然なかった。
「逃したのか、見逃されたのか」
 一人残された闇殺士は、笑いを含んだ声で自嘲的に呟いた。


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