会社から彼女のうちが近かったので、仕事が終わると、彼女の家に行きたい衝動に駆られる。8畳の部屋だが、家財道具とベッドで、隙間は2畳くらいしかない。彼女の部屋に着いた頃は丁度、お店へ出るための、支度の時間。彼女はぴりぴりしていた。いつも、鏡に向かって、タオル一枚だけ身に纏って、髪を乾かしていた。なんとなく、いたずらしたくなる。後ろからちょっかいをだしたりした。「ちょっと!!」「止めて!!」「邪魔しないで!!」「も〜!!」いつも、叱られる。叩かれる。それでも、「ごめん。ごめん。」と言いながら、また、ちょっかいを出す。彼女の怒りは脳天に達し、甲高い声で、「やめろ!!」「ちぇっ!」と、何回も舌打ちをする。こんな機嫌の悪いところも、僕の前で見せる。甘く切なく始まった恋なら、きっとこんなところを僕には見せたりしないんだろう。むしろ、素の自分を見せても、軽く受け流す僕だからなんだろうと思った。親元から離れ、親を頼らず、一人で、頑張って生きてきた。毎日、すごく、気を張って生きてきた。我儘になれる空間など今まで、なかったんだろうと思うといとおしくなった。 うちに殆ど毎晩泊まるようになって、もう、一月が経とうとしたある夜。お店が終わって、お客さんに誘われて、食事に行く事になったので、僕のところへは来れないとの事だった。ママも一緒なので、断れないらしい。来ないときもたまにあったので、しかたがないと思った。早々とベッドに入った。彼女が来る時は、居間の応接セットを片付けて、セミダブルの布団を敷いて二人で寝るが、一人の時は、それまで使っていたシングルのベッドに寝る。この空間は優れものでベッドから何でも出来るようになっている。オーディオもテレビもDVDもビデオもセットしてあるし、本もあるし、お酒や灰皿を置く台もあって、寝ながらなんでも出来る。一人の時はずっとこの空間で過ごしていた。その日は来ないと思って、早々と横になった。お酒も入って、12時前に寝てしまった。4時ごろ、またまた、夢に、悪女の彼女が登場して、嘲り笑っている。腹が立って起きた。目を覚まして、一人で寝たことに気がついて、腹が立ったのも忘れ、彼女の来ていない空虚感に襲われた。いつかこんな日が来るんじゃないかと体にひんやりとしたものが走った。ふと、居間を見ると何か黒いものが動いたような気がした。カーテンをしてるとは言え、4時になると薄明かりが入ってきていた。彼女がいるのではないかという思いがふと、頭をよぎった。居るわけがないのに、その思いがよぎるのは相当、やられているなと思った。それでも、かなりな近眼なので、確かめるように、ふらふらとソファーに近づいていった。いた!!黒いソファーに彼女は黒い服を着たまんま、横になって寝ていた。いないはずの人がいる。それまでの暗い気持ちは吹き飛んだ。うれしくてたまらない。平日と思って起きたら、日曜だったみたいな、たまらない嬉しさだった。普段は、寝ていても構わず飛び掛ってくるのに、来ないと言っていたので、気を使って、起こさなかったらしい。彼女が僕の家に来るようになって一ヶ月半。いつかしら僕は、毎日、彼女が来るのを待つようになっていた。一緒にいたい。一緒に毎日を過ごしたい。夜、それも、深夜の来襲。睡眠不足の毎日。今までと違った異常な日常はいつしかなくてはならない日常へと変化していた。 土曜日は、いつも明日が休日だと言うこともあって、ママと一緒にお客さんとお店が終わってから飲みに行くのが常だった。僕も、以前はそうしたことも何回かあった。その日も、きっと来ると待っていた。遂に、朝、5時になっていた。来ないと言って、来ていた夜以来、来るまで寝ないで待つようになった。電話が来た。かなり酔っ払っていた。「起きてたの?!」「寝てたよ!」「はははっ!寂しいんでしょ?!」「今日は来ないんだな?!」「どうしようかな〜?もううちに着いたんだけど。…今日はこのまま寝るわ。」半分、呂律が回っていなかった。「歌うたって!眠れるから。それまでずっと!」「いいから寝な!!」彼女は僕の歌が大好きだった。何回も歌ってくれって言うんで、アカペラで2・3曲、携帯電話越しに歌った。「もういい?」「だめ!!もっとずっと!!」空で覚えているのはそれくらいだったので、平井堅のCDを引っ張り出して、小さく掛けながら、小声で歌った。大好きな平井堅のアルバムだったんで、4・5曲、調子に乗ってうたった。30分くらい歌ったところで、「もしもし」と呼んでみた。いっぱい飲んで寝たときにいつも奏でる鼾が聞こえた。そのまま、僕を置いてきぼりで寝たらしい。ちょっとかちんと来たが、そのうち心の奥から笑いがこみ上げてきて、そのまま「お休み!」と言って電話を切った。 次の土曜日も、遅くなると言ったが、必ず行くと言っていた。「日曜、どっか出かけようか!」「うん!」3時になっても来なかった。お店が終わってからも、仕事のうちと思っていたし、彼女はお客を獲得するのに熱心だったから、電話をすること自体もいけないと思っていた。最初に話した来訪がこの時だった。ビールと油のこってり乗ったチキンが手土産だった。テンションの高い声で、ベッドに飛びついてキスを雨のように顔に浴びせながら、「ん?嫌なのか?大好きくせに!」などと何回も言った。布団は敷いてあったので、彼女は、服を無造作に脱ぐと、手土産もビールもほかして、そのままごろんと横になった。そして、その10秒後には寝息を立てていた。半端に脱いだ服をハンガーに掛け、横に入って寝た。鼾の音に安眠は妨害されたが。朝、8時。平日より遅く起きた。彼女は熟睡していた。その頃、まだかつらは、60キロ近くの体重だった。ペン以外持った事がないことを自負してた自分が、掃除のために彼女を、ベットまで運んだ。腰にずんと重みが来たがなんとか運べた。布団を片付け掃除と食事の支度と洗濯を始めた。彼女もすっぽんぽんにして、下着を洗った。味噌汁だけは多めに作ったが、きっと食べないだろうと他のおかずは一人前にした。11時。今日は手抜きの掃除だったんで、早めに終わった。干しておいた洗濯物は昨夜、畳んでしまっておいたので、今日は、干すだけだった。アイロンのない我が家(あってもちゃんと使えないが。)で、ワイシャツを干すのは、至難な技だ。まず、ワイシャツだけ別に洗う。洗う前に、襟に汚れ取りを充分にしみ込ませ暫く置く。洗い上がりの前に液体のノリを入れる。脱水が始まって30秒ぐらい経ったところで洗濯機を止める。さっと水を落としたワイシャツをハンガーに掛け、ボタンを留めて、襟を整えて、ハンガーを持って2・3度強く振る。少しあちこちを手に平をあわせてパンパン叩く。アイロンがなくとも、乾いたら、クリーニングに出したようにぱりっとなる。一人暮らしの知恵だとおもっている。彼女とは、昨日、11時頃から出かけようと話していた。案の定、起きない。一時まで待つことにした。ごろごろしている宿六の横でてきぱき働く妻の心境だ。でも、悪くはない。
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