玄関の鍵は掛けずにベッドに横になっていた。遅くなるとは言っていたものの電話が来てからすでに3時間ほど経っていた。眠れなかった。 それでも、やっと、まどろみかけてきた頃、「がちゃがちゃっ!」という鍵の音がした。開けとくっって言っておいたのに、すっかり忘れて鍵を使ったんだろう。ドアは自働で閉まるのに、力ずくでバタンと閉める大きな音がした。酔っているようだ。 続いて「かん、ころん、かーん!」というハイヒールがコンクリートの玄関を転がる音が2回響いた。なかなか脱げないハイヒールを足を振って片方ずつ脱いだんだろう。やっぱり、かなり酔っている。 廊下の歩き方はもっとひどくて、抜き足差し足で静かに、入って来ようとしているのは解るのだが、体が壁に、右に左にがつんがつんとぶつかり、その度揺れるような大きな音が何回もして、やっと部屋に辿り着いたようだ。 真っ暗な中に、うっすら姿が見えたので、「大丈夫?」と声を掛けた。すでに、夜中の3時は過ぎていた。「ヨッシー!起きてたの?!」と、高いテンションの声で叫ぶとベッドの僕の上に、思いっきりダイビングしてきた。布団がクッション代わりになったとは言え、お腹に力を入れて「うっ!」となるくらいの勢いだ。押しのけようとしても、桂が力を入れているので、跳ね除けようとしてもなかなか跳ね除けられなかった。その間、僕の口の周りが唾液でびしょびしょに成るくらい、嘗め回すように、キスをした。慌てて首を左右に振ったがお構いなしだった。 彼女が最初に僕の家にお見舞いに来てから、一か月が経っていた。最近は毎日、仕事が終わったら来るようになっていた。 次の日、僕は早く起きて朝ごはんを作った。その間、彼女は布団を上げて掃除をしてくれていた。「ありがと。ご飯食べよ!」昨夜、彼女はあんなに飲んだので、食欲がないらしく、味噌汁だけ少し飲んで、「おいしい!ごめん。」と言って箸を置いた。用意したハムエッグと焼いたしゃけが残った。 妻が出て行った日、机の上には、離婚届けが置いてあった。妻の判はすでに押してあった。この日から、20年以上、いや、一度も家事などしたことのない僕の自炊生活が始まった。 行きつけのスナックのママに、料理のレシピを書いてもらった。そこには「塩少々、醤油・酢適量。」と書いてあった。 「少々ってどのくらい?」「適量って大匙何杯?」 「ええっ!少々は少々だし、適量は適量。」???僕には、解らなかった。 先ずは、カレーのルウの裏に書いてあるレシピでカレーを作った。具が多すぎて、汁がなくなった。シチュウを作った。団子になった。ちょっと、意地があったので、それでも、頑張って、料理を続けた。 一年が経ち、家事にも、段々、慣れてきた。料理も、随分うまくなって来ていた。 家に帰ったら、先ず、洗濯機を回す。それから、乾いた洗濯物を畳む。居間と寝室に軽く掃除機を掛ける。お風呂掃除を軽くして、お湯を入れる。お米を研いで、炊飯器に入れ、味噌汁を作って、魚を焼く。フライパンで野菜を炒める。洗濯物を干して、風呂に入る。裸のまま、飯を食う。一人暮らしも板についてきた。 春のある日急に眩暈(めまい)がして朝、布団から起き上がって、2・3歩も歩かないうちに倒れた。仕事は忙しかったが、そんな繰り返しが数日続いたので会社を休んで寝ていた。やはり、一人暮らしの疲れが少し出たようだと思った。 一人暮らしを始めた頃に、入院中の母の容態が悪化した。もし葬式となったら、田舎だけに親戚中が集まるのできっと僕の離婚話で持ち切りになるだろう。父や兄姉や子供たちに嫌な思いをさせるだろうと自分でかってにそう思い込んで急いで再婚しようと思った。そこで、お見合いを何回かしてみた。 本当は20年ぶりの家事が億劫だったのだろう。僕が54歳だったので、持ち込まれる見合い話の女性の年齢も、50代か40代後半だった。年齢は全然問題なかったが、訳ありが多かった。一人目は、36歳の息子がうつ病で、生活に困っていた53歳。結婚というより経済支援をして欲しかっただけだった。勿論、その気持ちは解らないではないが・・・。次が、48歳で夫のDVで離婚。7歳と9歳の子供を施設に預けていた。結婚というより、救済だった。次が44歳。すごい美人で、社交的で、仕事も出来た。お金も多少ありそうだった。ずっと独身。「ありえない!」と紹介者に聞いたら、ある社長の愛人だったそうだ。別に若い愛人が出来たそうだで、手切れ金を貰って別れたらしい。全部ありかと思ったが、全部なしかとも思った。 見合いに嫌気が差し、それから見合いはしなかった。しばらくして、母は他界した。心配していた葬儀の時も、親戚のことは取り越し苦労で、僕の浮気が原因で別れたと言ったら、皆、大笑いで、大した問題にはならなかった。 そのうち、家事も苦にならなくなっていたので、もう、結婚なんかしなくてもいいと思うようになっていた。 桂が初めてうちを訪れてまもなく、彼女に食事に誘われた。おごってくれるそうだ。 中心街から、少し外れたビルの地下のスペイン料理の小さな店だった。 「パエリアのおいしいお店があるんだけど行く?」 「へ〜、パエリアいいね。行く行く!」僕も、おいしいものには目がない。 フラメンコも見せてくれる専門店で、とても美味しかった。 店を出たら少し雨が降っていたんで、彼女の傘に入れてもらった。彼女は僕に傘の掴むところを渡して腕を組んだ。 少し歩いたら、ビルの屋上に今日から動き出した観覧車のイルミネーションを振り出した雨が浮かび上がらせていた。ふと、一緒に旅行したいと思った。
|
|