第二章 死体愛好家 1 エリアン出発当日アイザワはまったくクロードに会うつもりはなかった。 丁寧にアイザワグループの会社にまでクロードを連れて行ったが、結局はクロードを外で待たせることになった。アイザワに会えるよう秘書に取り次いでもらえるように頼んだが、社長は忙しくて無理だと断られた。アネモネが戻ってくるまでクロードは待合室のソファーに腰掛け掃除用のロボット相手にぶつぶつ呟いていた。彼女の膝の上のスケッチブックには書き終わった緑のドームが描かれていた。アネモネが窓の景色を眺めると絵とそっくりのガラス張りのドームが見えた。植物園か何かだろうか。古いものが排除され新しいものが作られるシティにそんなものがあったのが驚きだった。 彼は腕時計で時間を確認してクロードを引っ張りエリアンに向かう汽車が出るコアの中心にある駅に向かった。クロネシティの中ではいくつもモノレールが数分置きに波目状の路線を走っているが、シティから外に出る汽車の数は極端に少ない。シティの中ですべて満足できるのであえて外に出ようとする者は少なかった。一時期は観光で外に出る者もいたが、仮想空間の実現で金や間をかける必要がなくなった。二人が乗る予定の昼発車予定のエリアン行きの汽車の時間を逃してしまうと、次は夕方発の電車に乗る羽目になってしまう。アネモネとクロードは五分前に駅にたどり着き、発車ベルが鳴り響くなか彼らは汽車に乗り込んだ。あまり乗客はいないかと思ったがアネモネの予想ははずれてどのコンパートメントも満席だった。ようやく空いたコンパートメントを発見して座席に荷物を置いた。 駅を出てからすぐに汽車はシティの環状線の道路わきのモノレール用の線路を回り始める。シティを囲む塀をつたい電車は円を描いてメルローズがある地下へと降りていく。そこからメルローズ辺りまで降りてくると地下トンネルに入った。長いようやくトンネルから抜けると機材が置かれた何もない荒れ地が広がる。ぐるぐると回っているうちにシティの厚い塀から出たのだ。工事用の機材と多くの木が切り倒された殺風景な光景だった。アネモネは座席に座りバッグの中から小さめのノートを取り出した。メルローズでレイがアネモネに渡してくれたノートだった。 「こんなものを預かったよ。レイは君の母親みたいだね」 アネモネがクロードにノートを見せると不思議そうに首を傾げた。 ノートにはクロードについて実に詳しく書いてある。彼女に人間が食べるような食べ物を食べさせてはいけないとか、彼女は飛びぬけているほど絵がうまいとか。彼女についてたくさんの項目を書いたノートを見ているとレイが一人の子どもを育てた母親なんだと実感する。そのノートはまるで母子手帳のようだ。それと同時にアネモネ自身が赤ん坊のようなクロードの保護者になったことがなんだかおかし思う。 「エリアンまではだいぶ長いよ。疲れていたら寝ていてもいい」 クロードはきょとんとした。アネモネもアンドロイドが睡眠を必要なのかどうか知らなかった。いろいろとレイに聞かなくてはいけないことがたくさんあるようだ。 エリアンまでの汽車の中二人の間に会話はなかった。クロードはしゃべる事が出来るようだがアネモネの前で喋ることはメルローズで彼女をメルローズに探しに行った時から一度もなかったし、いまだ彼女が本当に心を持っているかどうかは不明であった。 クロードのほうはレイに言われたようにスケッチブックを渡してからずっと絵を描き続けている。絵がうまいアンドロイドなんて初めて聞いた。アネモネは普段それほど喋ることが好きなわけではなく、彼女が黙ったままでいてくれることがありがたかった。クロードが歩く様子はまるで人間のようだったが、黙って外を見ている時はまるで人形のようだった。 それにアネモネは外の景色に心を奪われて話すことも忘れていた。汽車は広大な黄色い花畑の中を駆け抜けていく。右手側に映画の張りぼてのように巨大な青い山脈が汽車の行く末を眺めていた。クロードはもちろんアネモネすらクロネシティの外の風景を見るのは初めてだった。学生時代多くの本を読んでシティの外のことも知ったつもりでいた自分を恥ずかしく思う。 長い旅の果てにようやく汽車がエリアンの駅に着いた頃には空は茜色に染まっていた。さすがに長い移動距離にアネモネも疲れがたまっていた。早く新しい家に行って少し休みたかった。汽車から降りると、数人の男たちが汽車から貨物を切り離していた。手前に小さな集落、その向こうに湖畔がありそれをものともしない山岳が聳え立つ。クロードはその光景に口をぽかんと開けている。さらさらした髪を風がなびかせる。彼女はよくぼんやりとしていて迷子になりかねないのでアネモネはクロードの小さい手を握った。 駅の出口にはぶら下がった緑の看板が風で揺れていた。錆だらけ看板にはエリアンの名前とその下に誰か書き加えたのであろうサンクスチュアリーと彫ってある。たぶん「聖域」のことだろう。メルローズから逃げてきた人々にとって自然が溢れシティの厚い塀のように縛るものがないこの場所は聖域に違いない。 小さな駅を出ると駅舎の目の前に深緑の四角い車が止まっていた。だいぶ前にクロネシティで流行した車の種類だった。レイは駅まで迎えに来てくれる約束をしてくれていた。車の側に女性と男性が立っていた。レイともう一人の男性はレイの夫なのだろう。黒髪の体格のよい若者だった。快活な大きな声で彼はアネモネたちに彼は言った。 「ようこそ、エリアンへ」 彼の隣にいるレイもクロネシティで会った時よりだいぶ肌が明るく見えた。 「はじめまして。俺は成島雪路といいます。だいぶお疲れでしょう」 「大丈夫です。わざわざ迎えに来てくれてありがとうございます」 ユキジは自らアネモネたちの荷物を持ってくれた。アネモネもそうだがクロードの荷物は極端に少なかった。何が入っているかは知らないが彼女の四角いバッグは膨らんでいた。ユキジはアネモネより年は上のはずだが少年のような笑顔をしていた。彼は二人の少ない荷物をトランクにしまうと運転席に乗り込んだ。レイはユキジの隣の助手席に、アネモネとクロードは後ろの後部席に乗り込んだ。クロードはきょろきょろと不安げに車内を見渡している。 四人を乗せた車は木々が覆い茂るでこぼことした道を進んでいった。窓からは草原に何匹もの羊が草をついばんでいるのが見える。ずっと昔に読んだ絵本みたいにのどかな風景だ。解け始める夕日が彼らのふわふわとした毛並みをオレンジ色に染め上げる。 「本当にアネモネさんが来て下さって感謝しているんですよ。この町には病院が1つしかないし、義肢装具士もいなかったから」 ユキジは正面を見ながら言った。路は舗装されておらず車体が大きく左右に揺れる。クロードの軽い体が大きく揺れてアネモネの肩に彼女の頭が激突した。 シティでは高額な医療費を払い長生きする抗加齢医学が普及し、細胞から細胞を作る万能細胞が広まった。そのためシティの中ではだいぶ多くのアネモネのような装具技師が必要なくなった。シティが不老不死という人間の極限を目指す一方でエリアンのような地方の医療事情はお世辞にもいいとは言えない。住民の数に医者の数が足りていないのだ。 「町長さんから聞きました。大変だって」 レイが頷いてしゃべり始める。助手席からすこし体を後部席のほうに向けた。 「えぇ、小さな町ですがメルローズからの亡命者が多い分医療が必要なんです。お年寄りや子供に病気や事故や折檻があったとしても治療も受けられなかった人が多いんです。チアキの時も正直いうと悩みました。クロネシティは医療の環境は整っていますから。でも、ねっ?こんなに素晴らしい場所ですから」 レイがユキジに投げかけると彼も力強く頷いた。 「本当に素晴らしいところだと思いますよ」 レイに返したアネモネの言葉はけして社交辞令ではなかった。エリアンは辺鄙な所はあるが自然があふれとても美しい。シティの仮想空間でも自然は体験できるが、この自然の迫力には劣る。 「そうですか? よかった。クロードも気に入ってくれた?」 レイは振り向いてクロードに聞いた。彼女はクロードのほうに手を伸ばし彼女の頭をなでてやった。クロードの表情は仏張面のままだったが僅かに頬が赤く染まる。 「あんまりその子ばっかり構っていると、チアキが嫉妬するよ」 ユキジが苦そうな顔をして彼女に言う。クロードは黙ったまま撫でられている。 「クロードもチアキもかわいいんだからしょうがないじゃない」 ユキジの様子はクロードを特別に好む様子はない。かといってアンドロイドのクロードを軽蔑するような様子はなかった。アネモネはルームミラーに写る彼の穏やかな目を見て思った。車の窓からちらほら見える普通の家より少し大きめの白い家が見えた。低い石垣には花が咲き乱れている。屋根の上の風見鶏が忙しげに回っていた。二階のたくさんの窓の一つが開かれ白いカーテンがゆれているのが見える。誰かの家にはみえない。 「ここはなんですか? 家には見えないんですが」 「これがこの町の病院です。メルローズ出身の魔女の女性がいるので助かっているんです。知識も豊富で薬の調法もできるし。アネモネさんの家ももう少しで見えてきますよ。まさか『貝殻の家』だとはびっくりです」 「貝殻の家?そういう名前なんですか」 新しい家は装具技師の仕事を募集していたエリアンの町長に任せていた。今ちょうど仕事場として持ってこいの家があるのでぜひ使ってほしいと念を押された。電話口の町長は優しそうな声をしていたが、その反面少し頼りない印象も同時に受けた。 「ええ。ここの町長はあれでも若い頃はすごい建築家だったんです。町長が建築したのは素敵な家なんですけど、ちょっと普通に暮らすのは不便で今は誰も暮らしていません。別に曰くつきってわけではないですよ」 ユキジが慌てて訂正するのでアネモネは逆に不安になった。車はさらに坂を登っていく。 木立の間から先ほどの病院のように白い家が見えた。アネモネの眠気は一瞬にして吹っ飛んだ。さっきの病院と色は同じだったが外装はまったく違っていた。真ん中の塔を中心にして5つの白い円筒が組み合わさった幾何学的構成をしていた。屋根は美しい海のような色をしている。 「なんというか・・・凄い家だ」 車が止まると最初にクロードが車から降りて家の中に吸い寄せるように入っていった。玄関前のアーチを潜るとロビーが広がっている。建物の中央のロビーには曲線を描く吹き抜けの階段がある。螺旋階段の先には屋上があるようだ。二人の話ではその屋上にもまた部屋があるらしい。仕事場として使ったとしても、アネモネとクロードが住むには広すぎるほどの大きさだった。 「荷物のほうなんですが、左手の部屋のほうに置かせてもらいました」 左側の円形の部屋に入った。大きな窓が一面に広がっている。夕焼けがちょうどよく部屋に差し込んでいる。机と椅子、大きな本棚が置かれている。家具は比較的新しい物だった。その部屋の中央にダンボールがたくさん置かれている。シティからアネモネが先にエリアンに送った私物だった。だが、生活用品はそのダンボールの中の一部だけだった。 「あぁ・・・ありがとうございます」 アネモネはそこにある段ボールの箱の数を数えた後、その箱をしっかり閉じていた段ボールのテープを開ける。彼は何も言わず箱の中をあさり始める。肌色のものが箱の中にぎっしり詰め込まれていた。レイは小さく悲鳴を上げユキジの後ろに隠れた。彼女の場所からは本物の人間の手足が箱詰めされているように見えたかもしれない。しかし、それは彼の仕事で使う人口義足と義手などのサンプルであった。アネモネは運ばれる途中で傷がつかないか不安だった。装具はその人の合うように作るが、これらはその見本だった。私物と一緒に先にエリアンに送ってもらうように頼んでいた。 「驚かせてすいません。全部揃っているみたいです」 義眼サンプルが入った袋を取り出しながら彼は言った。瞳が袋の外の彼を見つめる。 「私こそごめんなさい。叫んじゃって」 ユキジの後ろからレイが顔を覗かせた。いつもの白い顔がさらに青白くなっている。ユキジは興味深そうに箱の中を覗き込んだ。いつも義肢装具を見ると人はこわごわと見つめるか、興味を持つかのどちらかに分かれる。異なった二人の反応はよい例えだった。 「ずいぶんそっくりに作れるものなんですね」 ユキジはレイのように怯える様子もなく軽い口調でアネモネに言った。レイはユキジにしがみついたまま少し距離をあけて義眼を見つめていた。傷つけないように段ボールの奥にちゃんとしまい込んだ。横に立ったクロードは何も言わず箱の中身を見つめている。 「そうですね。昔より技術も進歩しましたし」 レイとユキジに背中を向け、箱の中に入れて段ボールの封をもう一回閉じる。彼の義肢装具を扱う動作は丁寧で、それらを見つめる彼の表情は愛しげだった。アネモネの背後にいた二人は彼の表情に気づくことはなかったが、横に立っていたクロードだけが彼の表情を見つめていた。
2 まどろみの海を泳いで白い光の中で目が覚めた。アネモネはソファーのクッションから顔を上げる。彼の黒髪が顔にかかる。太陽が部屋を明るく照らしている。アネモネは枕元に置いた時計で時間を確認する。つい眠りすぎて日はもう昇りきってしまったようだ。 昨日は長旅の疲れでそのままソファーで横になってそのまま眠ってしまったらしい。クロードの方はまだ向かいのソファーで体を丸め眠っている。アネモネが彼女にかかった毛布が落ちそうだったので直そうとすると、彼女の体の隙間から見覚えのあるものが見えた。トワに贈ったはずのあの熊のぬいぐるみだった。彼女の小さなバッグが膨らんでいたのはこれが入っていたためなのだろう。だいぶ熊の容姿は変貌していたので一目でわからなかった。片耳は千切れているし、目も糸だけでぶら下がって取れそうだった。贈ってからたいして経っていないはずなのに、いったいどうすればこんな姿になれるのだろう。誤ってそのまま洗濯機の中にでもいれたのだろうか。 彼は荷物から服を出し着替え、適当に台所で一人分の朝ごはんを作り始める。食材はレイが昨日の夜わざわざ届けに来てくれた卵と野菜とパンだった。棚の中をのぞくとあらかしのものは揃っていた。古いものから最近シティで売られている商品もある。ずっと遠くに来たつもりでもシティの影響はこんな小さな町まで届いているのだ。起きてきたクロードが彼の向かいの席に座った。白い髪に寝癖がついて後頭部の髪がはねている。アネモネが朝食を食べている様子を真剣に見つめている。まるで咀嚼する様子がとても珍しい物かのように見る。 アネモネは棚からコップを取り出し荷物の中のオイルを注いだ。それがレイから言われたレモネードの造り方だった。クロードは物を食べられない。そのため異様なほど食べることに憧れがあるとレイがメルローズの帰りに教えてくれた。コップを彼女の前に差し出すと、黙ってそれを飲み始めた。たいていは首の裏のバッテリーの交換が主流で、このレモネードはエネルギーの補充になるらしい。喉から入ったオイルはちゃんと彼女のエネルギーに体の中で変換される。食器の音だけが響く静かな食卓に間の抜けた音が部屋に響いた。それがチャイムの音だとだいぶ経った後にアネモネは気づく。玄関の場所まで行きドアを開けた。しかし彼の視線の先には誰もいなかった。エリアンに来た初日から嫌がらせを受けるとは前途多難だな、とドアを閉めようとすると高いが聞こえた。 「ママを独り占めしないで」 声の主は彼の視線の下からだった。黒い髪の小さな女の子がアネモネに向かって指をさしている。ピンクの花柄のワンピースを着ているが、彼女のくりっとした丸い茶色の目は攻撃的だ。どこかでこの子と似た人を見た事がある気がした。けれど、その肝心な人が思い出そうとしてもなかなか出てこない。それでも女の子はアネモネに指を突き付けたまま言い放った。 「あんたなんかロボットのくせに」 女性が後ろから慌てて走ってくる。レイだった。彼女の右手に提げた籠が揺れる。軽くレイがチアキの頭をたたくと、彼女は口を尖らせてぶすっとした。 「こら。チアキ。アネモネさん、ごめんなさいね。これが娘のチアキなの」 片方の眉を上げ少し可笑しそうにレイは言った。レイの声を聞きつけてクロードがそそくさと玄関にやってきた。チアキはクロードの気づくと彼女がまるで世界を滅ぼす悪の権化でもあるかのように丸い瞳で睨みを利かせた。クロードもチアキの表情に気づいたのかアネモネの後ろに隠れた。その様子がおかしくてアネモネとレイは笑った。クロードの方が年上で、背丈も大きいのにチアキと同じくらいにしか見えない。 レイは籠バッグをアネモネに渡した。庭で取れたという野菜を分けてくれた。形は少し不格好だったが艶があっておいしそうだった。それを見てアネモネも箱の中からクロネで買ったお菓子を彼女に手渡した。エリアンについたら面倒がらずご近所さんに配るようにゾーニャに念を押されていた。彼女に言われなかったらアネモネはきっと後回しにしていただろう。 「もうお隣のマリアさんにはお会いしました?」 アネモネは首を横にふった。まだアネモネは隣の病院に持っていってなかった。これから医者と技師装具士としてお互い世話になるはずである。それほど遠いわけではなく何せお隣なので早めに挨拶しに行った方がいい。 「あの、少しの間クロードを家で見ていただけませんか。隣に挨拶しておきたいんで」 「かまいませんよ。でも、本当に中で待っていていいんですか?」 アネモネが頷くとチアキは目を三角にして悲鳴を上げた。言ってしまった後にアネモネはしまったなと思った。レイはクロードをまるで自分の子どものように可愛がっているが、彼女には一人娘のチアキがいる。 「それじゃあ、お言葉に甘えて。チアキ、クロード、一緒に遊ぼうか」 そういうとクロードとチアキはお互い顔をこわばらせたままで差し出したレイの両手をそれじれ握った。アネモネはレイに見送られ玄関から菓子の包みを持って家を出た。貝殻の家から病院までは坂を下りればすぐのところにある。病院の前に立ってインターホンがどこにあるのかを確かめる。病院を取り囲む石垣は花だらけでどこまで壁なのかも判断しづらい。もしかしたらドアにベルがついている場合もある。ずっとシティから出たことがないアネモネにはエリアンでの勝手がわからない。 アネモネが壁のあちこちを探していると、ドアが勢いよく開きドアから男が外に弾き飛ばされた。あまりの突然の出来事にアネモネは玄関前で固まった。巨漢の男性が石垣に当たり地面が揺れた。赤ら顔の男から酒と汗の嫌な匂いしてアネモネは鼻に皺を寄せた。 「お前らいつかぶっ殺してやる」 男の罵声に玄関に立つ女性が片方の口端を引き上げて悪そうな笑顔で男を見下している。はためく白衣の裾から黒いスカートと腿まであるブーツが見える。ヒールの高いブーツを履いていても身長は女性の中でも特に小柄な方だった。 「いい加減に理解しろ。そのでかい頭は飾りもんか」 右手の人差し指で頭を軽くたたきながら彼女は嫌味っぽく言った。男は女の言葉に激しくわめきだす。だいぶ酒が回っているようで呂律が回っていないので何を言っているか分からない。彼らは一切アネモネの存在に気づいていない。 「今度また連れ出そうとしたら警察を呼ぶからな。彼女の怪我が完治するまでこちらが預かる。もちろんレナートも。それまでは会いにくるな」 彼女の態度に腹を立てた男が足元に転がった石をつかむと、彼女の方に向かって投げた。そこに背が高い男が魔法のように現れ彼女を包みこみ庇った。石は軽く彼の背中に当たって音を立てて落ちた。現れたのは柔らかな髪をした好青年だった。だがそれは彼の顔の左半分だった。右半分は顔が焼け爛れていて、右目は完全に視力をなくしているようだった。 「トラヴォルタさん、奥さんとお子さんことは後で連絡します。その時にちゃんと話し合いましょう。ですから今はどうぞお引き取り下さい」 下を向いてぶつぶつと彼に対しての卑猥な言葉を吐いた。それでも彼は笑顔を崩さない。男は敵わない相手だとようやく気づいたのかその巨体を左右に揺らしながら病院からでていった。彼女は彼の腕の中から慌てて離れた。彼女の頬だけでもなく耳まで赤く染まっている。 「マリア、どうして自分から喧嘩を売るの」 彼の言葉に、彼女は胸倉をつかみそうな勢いで彼に突っかかっていく。 「だったら私もお前に聞く。どうしてあいつの肩を持つようなことをする。あの馬鹿親父の」 声を荒げる女性を男性はなだめようと必死だった。 「そういうわけじゃない。ただ逆上するのが怖いんだよ。前の時みたいに」 女性は彼の言葉に驚いた後に眼を伏せた。 女性の方はアネモネに気づいていなかったが、男性の方がアネモネに気がついた。アネモネは彼らに軽く右手を挙げて笑った。 「はじめまして、いや久しぶりかな」 アネモネは女性のほうに向かってそういった。彼女の目が大きく見開く。眉をゆがませるマリアの表情は再会を喜ぶ友の姿には見えなかった。彼女の長いポニーテールの先が風に揺れる。アネモネの記憶に残る成績優秀のシティ唯一の魔女が今アネモネの目の前にいるマリアだった。 「アネモネ?どうしてお前がここに」 「エリアンに雇われた新しい義肢装具士だ。でも、驚いた。君こそシティの付属病院で働いているとばかり思っていたのに。どうしてここにいるんだ?」 マリアはアネモネから視線をはずし足踏みした。彼女と会うのは卒業以来でだいぶ久しぶりだったが、彼女の容姿だけではなく癖すらも変わっていなかった。 「三年前にシティの病院をやめた。今は忙しいんだ。感傷ごっこは後にしてくれ」 彼女は家の中へ戻っていった。取り残された青年とアネモネが軽い会釈をした。 「はじめまして。エドワードです。元からエリアン出身で今は病院でマリアさんの手伝いをしています。よかったら中へどうぞ。お茶でもごちそうしますよ」 彼に促されるままにアネモネは玄関に上がった。ついつい断るタイミングを逃してしまった。しょうがないのでお茶を頂いたら早めに切り上げて帰ろうと考えた。 玄関に入るとすぐに大きな置時計が置かれている。振り子がついたその置時計はだいぶ年代物ではないかと思った。また置時計の側に座りこんだ小さな子どもも一瞬置物かと思った。 「エド、父ちゃん帰ったか?」 エドワードに聞く少年の顔はひどく青ざめている。きっと先ほどの男が彼の父親なのだろう。生憎にも彼の父親は優しい父親には見えない。少年もまた父親について聞くのも嫌そうだった。 「マリアが追い払ったよ。当分の間はきっと来ない。心配することないよ」 少年はエドワードに頷いて玄関脇の階段を昇り二階へと消えていった。彼の姿が完全に消えると黙っていたエドワードがまた話し始めた。 「1階は診察所で、二階は病室になっているんです。患者以外にもいろいろと事情のある人を匿っている場合もあります。あの・・・失礼ですが、マリアさんとは・・・」 アネモネの一歩先を歩いていたエドワードは恐る恐る彼に尋ねる。アネモネの前での彼の挙動不審さの意味がわかった。またエドワードからアネモネと会ってから微妙な距離を保っている意味がわかった。彼はアネモネをマリアの昔の恋人か何かかと思っているのだろう。 「マリアは昔の友人だよ。学生時代の頃の。お互い医療の勉強を受けていたから。たぶん君が心配しているような間柄ではない」 アネモネの言葉は真実だった。彼女とアネモネはただの友人だった。マリアのほうはもしかしたら友人とすら思っていないかもしれない。エドワードは長い時間考えるような素振りをした。その間が照れ隠しのように思えた。 「それを聞いて安心しました」 エドワードはにこやかに言った。 「それはよかった」 その穏やかな笑顔にだいぶ破天荒なマリアに巻き込まれているのではないかと思った。 廊下を歩いているとドアの隙間から話し語が聞こえた。マリアが椅子に座った女性と向かい合って話しをしている。向かいの女性は髪をひとつに束ね顔のあちこちに青あざが目立っている。女性がゆっくり椅子から立ち上がると、マリアは心配そうな顔をしたまま自分より背の高い女性にカーディガンを羽織らせた。アネモネは診察室を通り過ぎダイニングルームに通された。大きな出窓がありまぶしいほどの光が部屋中に差し込んでいる。部屋の中心には木のぬくもりが残る大きなテーブルが置かれている。ジュースの空瓶が置かれ野花が生けられている。アネモネはそのテーブルの椅子に座った。彼は奥の台所の棚をあけ手際よくお茶の準備をしている。壁には絵本のような可愛らしい絵が飾られている。一部が欠けた家具に茶色くなった壁紙と病院にあるものはだいぶ古いものだったが、マリアとエドワードがよく努めているのか部屋は清潔で明るい印象を受けた。病院特有の張り詰めた重苦しい雰囲気がここにはなった。彼は一度も来たこともないのにどうしてか懐かしくて落ち着いた。 「結構大変だろう。あの小さな女王様は」 「えぇ、まぁ。でも彼女は不器用だから・・・」 紅茶の葉をティーカップに入れながら彼は徐にしゃべり始める。お湯を入れると香ばしい香りがダイニングルームの中に広がった。そしてエドワードの片方の瞳は過去を追憶する。 「あれはマリアをクロネシティに迎えに行った帰りのことでした。その日はコンパートメントがかなり混んでいました。そのなかに産まれたばかりの小さな赤ちゃんを連れた女性がいたんです。その赤ちゃんの泣き声が凄くて、最初はよかったんですがさすがに長旅ですから苛立ちも積もったのでしょう。ある人が女性に怒鳴りました。迷惑だ、出てけって。その人にマリアが言ったんです『お前が赤ん坊のときは泣かなかったのかよ』って。そのあとはコンパートメントで乗り合わせた乗客を巻き込んで二人で取っ組み合いです」 「それはびっくりしただろうね」 紅茶を受け取りながらアネモネは言った。エドワードは恥ずかしそうに歯を見せて笑った。 「はい。でも後で聞いたらマリアさんも赤ちゃんの泣き声がうるさくていらいらしていた上に、男が怒鳴った物だからそれで爆発しただけだったみたいです」 「ところで、それが一体さっきの言葉とどう関係しているんだ? 」 「あっ、そうでしたね。マリアがその時に言ったんです。赤ん坊みたいに自由に泣けたり、笑ったり出来たらいいのになと後で言いました。マリアさんはそういう女性なんです。不器用なのでうまい感情表現ができない」 「君はさすがだね、君は。俺は分かるのに三年もかかったよ」 エドワードは紅茶のカップをテーブルに置いた。アネモネはさっそく紅茶を飲む。あまり病院に長居するつもりはなかった。マリアが頭を掻きながら部屋に入ってくる。高いヒールに踏みつけられて痛んだ木目の床が悲鳴を上げた。アネモネが部屋にまだいることに気づくとあからさまに顔をしかめた。 「エド、こいつにお茶なんて入れなくていいぞ。おまえも自分ちみたいにのんびりとくつろぐな。そろそろ帰ったらどうだ。暇なおまえと違ってこっちは忙しいんだ」 「そうだね。君たちの愛の巣にいつまでもお邪魔するわけには行かないからね。帰らないと」 「この・・・っ。お前の腹開いてやろうか」 恐ろしい速さでマリアがアネモネの首をつかんだ。容赦なく彼女の爪が食い込んでエドワードの顔が青ざめる。エドワードの不安な顔を見てマリアはゆっくり彼の首から指を離した。 「少しふざけただけだ。いちいち本気にするな。まぁせいぜいあんたもがんばれよ」 嫌味たっぷりに彼女はアネモネの肩をたたいた。彼女の身長からしてそれは辛そうだったがあえてアネモネは言うのをやめといた。これ以上ここでマリアとまた喧嘩するつもりはなかった、レイを待たせたままなので貝殻の家に早めに帰らなくてはいけなかった。 彼が貝殻の家に帰ると、誰もいないのではないかと思うほど家の中は静かだった。部屋をのぞくとチアキとクロードが仲よく並んで絵を描いていた。クロードがスケッチブックに絵を描く様子をチアキは床に寝そべって見ている。チアキはふいに面白そうにクロードの顔を見て笑い出す。二人が並んでいるとまるで姉妹のように見える。クロードの表情も笑うことはなかったが、いつもより若干柔らかいような気がした。彼が家を出る前はあれほど険悪な雰囲気だったのにいつのまにか穏やかな雰囲気が流れている。一体短時間のうちに何が起こったのだろう。彼女たちの側で床に座り込んでいたレイがアネモネに気がついた。 「おかえりなさい」 と言って彼女は笑った。アネモネは母親というものをよく知らないが。それでも確かに彼女の顔は母親の顔だった。レイの母親のような笑顔に、病院の居心地の良いダイニングルーム。エリアンには生活の隅々に知らないはずなのに懐かしいものが隠れていて、時折光ってはアネモネを驚かせる。そしてそれらは不思議なほどアネモネの心に留まって離れなかった。
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