「パパ、いってらっしゃ〜い」 私は山本仁志、42才。 ちょっと無理してローンを組んで買った郊外の一軒家から、いつまでも若々しくて美しい妻・千晶とまだ幼い愛娘・愛に見送られて家を出たのはいつもと同じ朝の7時過ぎ。 それはそれまでと何の変わりもないごくありふれた12月のある一日の始まりだったはずだった。 地下鉄の駅の階段を駆け下りた私は急に胸に締めつけられる様な傷みを感じた。 脂汗が額を滴り落ち、思わず階段の途中でしゃがみ込んだ後の記憶はプツリと途絶え、その後は無い。
ふと気がついた時に私は見知らぬ白い部屋にいた。 ここはいったいどこなんだ? 辺りを見回すと、泣きじゃくっている千晶と愛が見えた。 「アナタ、何でこんなことに?!」 「パパ、死んじゃいやぁ〜〜〜!」 愛、私が死ぬだって?縁起でもない。 ただ、白いシーツをかけられてベッドの上に横たわっているのは、目を固く閉じた間違いなく私自身であった。 ここは病院なのか? ちょっと待ってくれ! 「死んだらしい私」を見ている「私」は一体誰なんだ?!
これは悪い夢だ。 妻と娘に見送られて出勤する所から始まった夢なのだ。 間もなく枕元の目覚ましが鳴り、美しい妻がやさしく起こしにきてくれるはずなのだ 。
「おい」 だが、いつまで経っても目覚ましは鳴らず、「死んだらしい私」に取りすがって泣くだけの妻と愛娘をぼんやり見つめていた私の背後からイキナリ呼びかけられた。 振り返った私の目に映ったのは見知らぬ老人だった。 「おい、お前だよ」 「貴男はどなたですか?」 「『誰』?名前なんかとっくに忘れちまったよ。ふ〜〜ん、お前さん、まだ事情が飲み込めてないんだな。」 事情?事情って何だ?? 何だかヤヤコシイ夢だ。 「ぼくは山本仁志、貴男は?」 その老人はいきなり笑い出した。 「お前は『元・山本仁志』、とっくに死んじまってるんだよ。」 ますます悪趣味な夢だ。 早く目覚ましが鳴って私を起こしてくれないか。 「お前は死んじまったんだよ。そこにお前の死体が転がっているじゃねえか。」 自分が死ぬ夢って何か意味があるんだっけ? 普段、占いなんてモノは全く信頼しない私だが、起きたら占い師にでも一度みてもらおう。 「これは夢なんかじゃねえよ。」 私の肩を笑いながらぽんぽん叩く見知らぬ老人に、私は少しむっとしていた。 どうやらこれは長編の悪夢らしい。 まあ何がどうなったって所詮は夢なのだ。 半ば居直った私は彼に向き直った。 「ぼくは死んだんですね。」 「ああ、そうさ。何でも心筋梗塞だったらしい。まだ若いのにかわいそうになあ。まあ不整脈でほとんど即死に近かったらしいからさほど苦しまなかったのは、不幸中の幸いかもな。」 いくら夢の中のこととは言え、人の死に様を笑う老人に私はますますムッとしていた。
心筋梗塞だって? そりゃあ私はヘビースモーカーだが、この前の健康診断じゃ異常なしの健康体だぞ。 心電図だって異常はなかったはずだ。 「健康診断なんてものをあてにしちゃいけねえなあ。」 私の心の中を見透かしたような老人の声に私はハッとした。 「喋らなくてもわかるのさ、俺たち霊魂の世界では言葉なんて要らないんだ。」 「霊魂、霊魂ですって?!」 「そうよ、お前はあそこで死んでいる。つまり今のお前はその霊魂ってわけだ。」 まだ私は自分が置かれている状況を全く飲み込めずにいた。 夢にしちゃあ何とも設定の細かい夢じゃないか。 「夢なんかじゃないとっているだろ。まだわかんねえのか!なんだったら自分のほっぺたでもつねってみることだな。」 腕組みした老人は薄笑いさえ浮かべている。 言われるままにほっぺたを思いっきりつねってみたが、不思議と痛みは全く感じなかった。 「ホラ、やっぱり夢だ。つねっても全然痛くないじゃないか。」 「痛くねえのは霊魂に実在する肉体ってものが無いからさ。」 「何のことだ?肉体が存在しない??手だって足だって揃っているじゃないか。それに霊魂ってコトはお化けだろう?足が揃っているお化けなんか聞いたことがない!」 「じゃあ俺たちがさっきからここでしゃべっているのに、どうしてお前の家族は気づかない?俺たちの声も聞こえなければ姿も見えてないからさ。」 「それはこれが夢だからだ。」 「ふんっ、わからずやめ!」 次の瞬間老人の姿はフッと消えてしまった。
それからしばらくの間、取り残された私はすすり泣く妻と愛娘の姿をただぼんやりと眺めているしかなかった。
|
|