43 <エピローグ 繰言始末>
世間には、思いもしない話は多い。これだから面白い、とまた私は語りたくなっている。 私に限っても、少し前までは落ち込んでいた。人と話す気持もなくしていた。それが今、私は以前にも増して伸びやかになっている。経験が物言いそうだ。老人の強さかも知れない。 相手への配慮の気持を示してその相手の良心に訴える時代は過ぎた。遠慮すれば相手はこちらが引いた地点を出発点にする。厚かましい時代になっている。配慮への感謝などない。 思えば、仮面を楽しんだ自分も自分だった。打ちのめされた自分も自分だ。そして還暦も過ぎているのに、今、逆に若々しい気分になろうとしているのも私だ。 哀れがっていた隣家の女が、再び声をかけ始めた。 「何か嬉しそうですね。若々しくなられて。」 当たり前だ。落ち込んでばかりでは未来はない。つい、「あんたのような人には理解できまい。」などと一人ごちた。つい少し前の自分を捨て、強気でいようと改めて決めた私がいる。 とは言え、私は相当ひどい顔をしていたのだろう。その一年間が嘘のように、今思える。 誰彼になく喋りたくて、自分の思いを伝えていたあの日々。 それが最後は、伝える気力も失せていた。仕事を辞めるまでに至った。 仕事を再開すると決めた時、緑と偶然出会った。春人が亡くなる前夜に立ち会っていた女性である。 福岡の夏に短期間だが、知る人ぞ知る『平和のための戦争展』がある。日中友好協会などの組織が頑張っている行事らしい。春人からその存在は聞いていた。だが、外に出る気のなかった昨年は勿論行ってない。 今年、春人の兄、幸成が来て話をした。それが契機になって仕事も復活した。それに合わせるように、春人の「遺言」として聞く気持になって『戦争展』を見に行った。 緑も同じ気持でいたのだろう。ばったり会ったのだ。中国を意識して生きている人たちの存在を私も認めるようになった。私がその一員になったら春人も喜ぶだろう。不思議な感傷だ。 緑に会えたのも、再出発のお祝い、贈り物として受け止めることにした。 老いた女が老いをしっかり意識する。だからこそ、ここから始める新たな物語の展開・・・・。
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