31 「春風の」つづき
初めて会う男だ。勝子は少し恥じ入るように息子の勇だと私に紹介した。どこに住んでいるのか言わない。勝子は息子の話をこれまでしたこともなかった。勇は寡黙な50代である。 何の反応も無く、勇はそそくさと帰り支度をし出て行った。私が来たからだろう。 「忙しい息子。」と勝子は弁解するように言い添えた。 「息子さんに会えてよかったね。」私は率直な感想を述べた。勝子はそれに応えず、私の下駄の紅の鼻緒を誉めた。勝子も下駄が好きだ。鼻緒を付替え今回も私は会いに来たのだ。勝子は、「近頃下駄が重たい。あんたに貰った桐下駄でも履けない」とつぶやいた。 床が濡れているので雑巾を取りに風呂場に行った。汚物の臭いが残っていた。勝子は失禁していたのだ。息子に始末を委ねた勝子の気持を思った。それでも、私が来る前だらしなくしていたのは、勇に心を許していたからだろう。それも意外だった。 パッチの袋から勝子の好きな菓子を出した。「お薬にさせてもらおう。」と勝子は言った。 勝子は争議の最中に三池労組から第二組合に移っていた。子どもを育てるためにしたことだと強弁する一方、己の気持を癒すため信仰を始めていた。表向きの贅沢も戒めていた。 勝子宅を重ねて訪問し愚痴などを聞くにつけ、仕事で関わる患者やその周りの人たちの窺い知れぬ事情を想像することにもなる。表面的に判断できないことは、私自身の事情も同じだ。
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