8、 「汚れ雪」 後半 興信所は学生運動の活動家をチェックして不合格か否かを決める役割を果たしている。 30人にも満たない小さな寮である。毎日朝夕の食事を一緒に摂っている。「何も知らん」と言うことは、得体の知れない学生だと言うことにならないか。母親として息子を愛する感覚だったら、「心配無用。いい子だから」以外の言い方は思いつかないはず。 笑川にしたら「学生運動をやっています」と言うより上手く「答えて上げた」気になっている。浅知恵が子どもの一生に与える影響や、悲しんでいる子どもの感情を、想像できない笑川である。この鈍感さを気にした。腹が立った。母親として思慕してきた見る目のなかった自分自身に我慢ならなかった。 その時以後、私は笑川に心を閉ざして過ごした。入寮を喜んでいた桑園寮だったが、一部で不快な住居になったまま卒業した。 それから42年。封印し無視し続けていた桑園寮だったが、私はその桑園寮同窓会に出かけた。先輩の本多が末期の癌治療を断った。その上で同窓会開催を希望したからだ。 近頃の私の強迫観念は「最後の機会」との意識である。会わなければ悔いが残る。 テニスコートに代る寮跡に隣接して建つ記念碑の傍らで、本多ら参加者でジンギス汗鍋を囲んだ。予想外だったが、そこへ笑川が子どもらに手を取られて顔を見せた。 人がひとしきり出会いや再会の挨拶をした後、私も笑川に近寄り自己紹介をした。 しかし笑川は、私と言う存在自体を記憶していなかった。私との関係では所詮そんな人間だったのだと再確認した。全くの赤の他人だと認めれば、薄情な事実を恨むこともない。
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