7、 汚れ雪 長靴の中 足を取る
白髪を毛羽立たせた感の小野は、私の方を振り返らず、喋りながら立ち上がった。湯船に向う小野の尻の筋肉は垂れていた。だがそれだけではなく、右足を引きずっていた。 「兄ちゃん、外国に行ったことがあるか」。湯船の中から私に聞いてきた。 「いいえ、ありません」 「そうな。ワシなあ、戻った後その中国にもういっぺんだけ行った。安東ってとこだ」。 私はアントンがどこか全然知らない。だから一層感心する。 しかし小野は安東という所に何故行けたのか。日本から中国には行けない筈だ。聞いても小野は、それ以上喋ることもなかった。風呂の中で目をつぶったままである。 私も黙って頭も身体も洗った。そして小野との会話を少し反芻しながら桑園寮に戻った。 戻って食堂に顔を出した。私達の寮の寮母笑川(エミカワ)が夕方の食事つくりの準備を終え、食堂側に出てきたところだった。「お帰り」笑川が声をかけてきた。 「うん」小さく応じた。私は前のように声を出すことが出来なくなっている。 私の母親より少し若い。でも姉ではない。母親に対する気持ちで笑川とずっと接して来た。だが、変った。以前は笑川の顔を見たい気持が強かった。が、今は違った。 今もいつもの笑顔だ。私が慕うことになった一番の理由だったかも知れない。だが、今や笑顔の裏に潜んでいるもの、大人の自分中心主義、大人のにこやかな笑みの裏にある別の本心を知った。ギリギリの場面で露呈する薄情さを私は見てしまったのだ。 二ヶ月前、同じように早く寮に戻り、習慣のように食堂に出ていた。誰もいなかった。と、その時、炊事場から出てきた笑川が言った。 「興信所が来ていたよ。私は何も知らん、って答えて上げといたからね。」 「えっ」、私は思わず声が出た。
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