42 「小なれど」つづき
大学の教養部時代の学生自治会との関わりはその程度であった。 集会参加以外は関われなかった。自治会委員長の村瀬喜之らを遠く眺めるだけだった。 文学部移行後は、自治会活動に半分関わり、鉄北地域安保共闘会議の事務局員を務めた。 サークル活動としては、学部移行後は応援団も卒業していたので日中友好協会北大学生班副班長として、友好協会運動に本格的に関わっていった。 中華人民共和国(新中国)が誕生して16年、17年だった。それでも日本の支配層の意を受けたマスコミは意識的に「中共」と呼んで正規の国でない印象を国民に与え続けた。 日中友好協会北大班の活動も、新中国との国交回復実現に向けてだった。中国雑誌、中国映画、マオタイ酒、ギョーザを武器に、新中国を宣伝し理解して貰うことでもあった。 大学内のクラーク会館で、中国映画『燎原の火』の放映中、クラーク会館の講堂辺の電気が消えた。それも二度も消えた。中国映画の上映を好まない者たちの嫌がらせであろう。覚悟していることだが、矢張り頭にはくる。映写室に行った。映写技師がいた。 「お願いしますよ」私は言った。技師は「分っている」と応えた。この男の責任ではなさそうだった。しかし、何かを感じ取っていての対応でもあった。 そうした活動とは別にボランティアの『赤旗』配りもしていた。私が当時珍しかった自動車免許の保持者であり、かつ50ccバイクの所有者でもあったことで依頼された。先輩格学生の毎日の配達苦労を半減させるためである。平日は交互に、そして日曜日は分量が倍になるため二人で受け持った。一週間に4日、夕方事務所に行って部数を数え、束にし、段ボール箱に縦に詰めて走るのである。卒業するまでの一年余、大学内と近辺に配った。 春夏、秋もよかった。冬は大変。凍った雪道は怖かった。市電の軌道を渡るときは特にだ。雨も嫌。一人で受け持ったり、自転車で配っていた人の辛さを私は十分理解できた。これら全てが小さくも、私の二十歳の憧れ、充実した有難い大学生活を彩るものだった。
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