40 「面済々」つづき 一方、焼酎呑みつつ「応援団は意気で生きるものだ」と私はよく言われた。先輩からだけでなく同輩からも批判されるようになった。私が理屈っぽく考える人間だからだろう。 私は髭も薄い。おまけに伸びない。氏平などには逞しい髭があった。羨ましかった。私らが普通に履く朴歯の下駄の3倍も5倍も大きな特製高下駄が応援団に代々受け継がれているのだが、私には似合わない。氏平は応援団に関わる何でもが似合った。団長になるべくしてなったと私は思う。数少ない工業高校卒北大生の貴重な一人である同じ応援団の中島久と言う男と共に、この氏平増之を私は尊敬していた。 私に回って来た役割はマネージャーだった。お金の管理が主な仕事だった。特に夏の七大学定期戦応援に行くための費用を捻出し実際に支払う仕事は、先輩のを見ていても大変な気がしていた。一年の時は九州大学だったが、私らの責任の遠征先は京都大学であった。宿泊費としてのお金をかけることは出来ない。だから京大吉田寮にお願いした。 費用捻出は「映画会」上映益金と「札幌神社御輿担ぎ」の集団バイトである。先輩のしてきたことを真似るだけだが、お金が入るのは嬉しいし、金の作り方自体も面白かった。 大通り公園の南に、アメリカ映画会社ワーナーブラザーズ支所があった。貸し出しリストから安い作品を選ぶのだ。ゲイリークーパー『縛り首の木』の古木は今も記憶に残る。 刑務所に行き、割安て済む「映画券」印刷の注文も行えた。大学生になっただけで、こうも多種な中身を経験できるのだ。 私は恵まれていた。今の今もだが自分の周りの全てに感謝する。
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