39 面済々 焼酎交す 汗・唾
私の愛する応援団は、二十歳の私を一時丸ごと支配した蓬髪、羽織袴、朴歯の下駄の北大応援団である。 この応援団からは45年経た今も時々連絡が来る。しかし私は今の北海道大学応援団に愛着の念はない。昔の予科の流れを汲んだ応援団ではなくなっている。四年制応援団になるのは時代の要請だった。だが私の感覚では、私の知る応援団ではなくなることだった。 私が入団してすぐの最初の応援団合宿の途中から、私に太鼓を叩く役割が回って来た。先輩の誰かの思い付きからだろうが、私は嬉しかった。しかし特に乱打がうまくいかない。 「フレーフレー」でも歌の時でも元気が出るよう、雨も厭わず敲き続ける責任があった。 応援団で一番敲く歌は『都ぞ弥生』である。この歌は知っていた。浪人中の「ラジオ受験講座」で聞いていたからだ。と言ってもその歌に特に憧れたとかはなかった気がする。浪人中は『ああ玉杯に花うけて』『紅燃ゆる丘の上』の方に馴染んでいた。しかし実際に大学に入り応援団で何度も歌の練習をするうちに、まずは『都ぞ弥生』の歌詞に惹かれるようになっていた。私の憧れの大地の四季が綴られている。そしてその地を愛する者への生き方を示唆している。「尊き野心の教え培い」がいい。『ああ玉杯に』の高踏的な大言壮語はない。第三者は50歩100歩と言うだろう。が、その僅かの違いが誇らしかった。その『都ぞ弥生』を皆で歌うとき太鼓を敲けるのも私の誇りだった。それだけに左手を鍛えたいと思った。誰かが示唆した訳でもなかったが、私の中では必要性に迫られていた。 できるだけ左手を使う。三度三度の食事時に左手を使うことを考えた。はじめはスプーンでもこぼしていた。そんな私でも三ヶ月も経てば箸ですら左手でもかなり自由にこなせるようになる。そしてその分、太鼓の乱打で遅れがちな左手が少しは右手に近づくことが出来た気がする。私は密かにその事実を喜んでいた。
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