36 「還暦や」つづき
日中友好協会学生班の当時のメンバーは同窓会を開いてくれた。一気に40年前に戻ることが出来た。大学祭等での、新中国紹介のための中国映画上映や、ギョーザやマオタイ酒の販売等も思い出した。懐かしい人たちだけでなく新たな人との交わりもそこで始まった。 応援団としては当時の応援団長氏平が、私が引き連れて来た子どもらのために、小樽の運河や札幌の動物園に自ら車を運転して案内した。 佐々木洋、浜忠雄、松尾嘉道と酒を飲みつつ学生運動、政治活動の過去と今を語らった。 私の人格形成に大きな役割を果した大学時代は、私としては感謝の気持ちが強い。それで日田市の下駄も出会える人に配る分以上の数を直接各会場に送って貰ってもいた。 応援団、日中友好協会、学生運動、私と関わった人はそれぞれに異なっている。だが、私の中では共通した内容を含むし、それぞれの人への感謝の気持は同じなのである。 これらの人たちとの再会だけでも十分なのだが、おまけまでついた。 同級生なのだが私とは違って北大に残り研究と教育に関わっていた工藤正広も車を出して広い学内だけでなく、少し離れた中島公園内の北海道文化館を紹介した。子どもたちは工藤の優しさ面白い話、一時に呉れた一人2個のアイスクリームをも大いに喜んだ。 一方、札幌に向う前、無くてもともとの気持で中国哲学研究室宛に手紙を出していた。そしてその中哲研究室を訪れ『卒業論文』を返してもらうこともできた。読み返してみると、恥ずかしい限りの拙文であった。が、あの当時の苦労した日々を思い出させた。 『還暦』は『成人』あっての還暦である。恵まれていた人生。その事実を十分確かめる場となった札幌は、やはり、福岡とはまた異なる私の心の故郷である。
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