34 「我二十歳」つづき
一方、この間を利用した円山公園まで行進しての寮の公式行事、「観桜会」=桜の花見もあった。福岡よりも一ヶ月半遅い花見である。北の国に来たことを実感できる。 その合宿や花見の後に、アメリカの原子力潜水艦ポラリスがやって来るという事件があった。「原潜反対」集会は、私の19歳の最後の日に計画された。 初めての政治集会、デモ経験である。参加する人の多さにも驚いた。田舎出の私が参加しているのだから多いはずだと納得もした。 デモの最中には、シュプレヒコールを唱和する。併せて歌も歌う。『わかものよ体を鍛えておけ』の歌は短いからか何度も歌うことになって、この日の内に覚えてしまった。『がんばろう』も元気が出る歌だ。 それらとちょっと違うが、気になる歌があった。「つくーしののー みーどりーのみちをーすすみゆくー じゅうまーんの せーんれーつ」だ。私はもちろんはじめて聞く歌だった。「つくー」と来たからだろう。「つくば(関東)」方面の歌だとインプットされてしまって、福岡の話とは全く気づかなかった。「いたーづーけはーほおーいされた」のだから、よく考えれば福岡に決まっている。でも福岡の歌なら「ちくし」でしかないはずだ。 これが福岡県大牟田市の三池炭鉱労働者、荒木栄の歌だと分ってからは、私は、「つくし」でなく「ちくしのの緑の道を」と意識的に歌うようにしてきた。 『この勝利響け轟け』に出会ったのも、後から思えば20歳のプレゼントの一つであった。 そして早くもこの頃から、私と同じ苗字の松尾嘉道と、村瀬喜之を同学年の中では意識するようになっていた。大勢の前で話すことが出来ることに憧れた。嘉道と喜之、名前は似ていても性格は異なっていそうだ。だが二人とも、私にとって偉大な人間であることに変りはなかった。今までに出会ったことのない人々との出会いは既に始まっていた。
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