23 反核の 企画新たに 夏走る
1964年10月16日は第一回目の中国核実験の日である。 中華人民共和国が成立して15年経っていた。日本のマスコミの殆どは、中国とは呼ばずに、「中共」と表記していた。中華人民共和国の広大な場所は、地図上の空白地帯であった 私が教養部から文学部哲学科中国哲学専修科(通称「中哲」)に移行してすぐの頃だ。その年、教養部から文学科中国文学専修科(中文)には一人も移行しなかった。中哲への移行も私一人だった。後で札幌教育大学から一人入って来たが、学校に来ることの少ない学生で、殆ど一緒になることはなかった。 その実験の日の前から、「中国の核実験反対」の意志は、各種ビラや寮の食堂に貼られた壁新聞等で示されていた。以前にも中国共産党のスターリン主義批判、毛沢東の『矛盾論』『実践論』批判を壁新聞で私は読んでいた。壁新聞は、概ね私には難し過ぎる内容だった。毛沢東を批判する学生がいることにも驚いた。自分と同年代の若者の文である。その分で「中国核実験反対」の壁新聞などにも惹かれた。 「中国派」を自認する私は、この核実験に反対しなかった。私の読める中国の資料は『人民中国』と『北京週報』だった。「中国は決して先に使用することはない」と繰り返していた。私はそれを信じ、反対する人に中国の立場を弁護していた。 このことで、「毛沢東一派」などと揶揄された。レッテル貼りは好きでない。だが、この場合は必ずしも嫌なことではなかった。認められていくことを喜んでもいた。
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