22 「高下駄や」つづき
教養部寮は恵迪(ケイテキ)寮である。そこは、サークルがあり、政治集団の坩堝に映っていた。それが新鮮だし面白かった。応援団に対し右翼視する者もいた。が、逆に政治的党派性が薄い分、第三者的扱いを受け、政治論争の枠の外にいることが多かった。 恵迪寮はサークル制がとられていた。部屋換えの度にサークルを申請し、人数が集まれば認められ、足りなければ少ないままあぷれた者同士が組んだ。私は入学当初は「中国研究会」を選んだが、次からは応援団部屋で過した。 重盛の主催する『中国近現代史入門』読書会にも当然とは言え、応援団部屋から着物のまま出向いた。 小中学生の頃から惹かれていたタクラマカン砂漠に象徴される私の中国。荒涼とした広大な中国。しかし実際の中国は無機質の場ではなく、人と人が憎み合い、愛し合う生臭い場だった。繰り返される権力闘争。近現代においては、侵略し屈服する民族間の争いだけでなかった。中華人民共和国の成立を扱った後半は階級間の争いが露だったし、具体的だった。私はそれぞれの立場に我が身を置いて理解しようとしていた。 しかし毛沢東らの立場でものを見ることが多くなった。
重盛だけでなく、『中国近現代史入門』読書会に来ている他の参加者はそれ以上に、着物姿の私を胡散臭く見ていることは分った。応援団姿でいることは、どこででも同じだから覚悟もしていたし、慣れてもいたから気にしなかった。 中国共産党、八路軍(人民解放軍)と応援団を重ねることが多くなった。 人を助け自らも生かされていく道は、私には希望の道であった。永遠の目標でもある。
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