20 「60年」つづき
この増田と同じ生協職員の佐々と私とを束ねて、『交換政治日誌』を思いついたのが重盛だった。私は夢中になって付け焼刃の知識を総動員して書く楽しみを味わった。増田に読んで欲しいと思ってだ。初めて日記を渡し寮に戻る時、真っ青な空に白雲の西に走るのが見えた。 福岡の田舎の高校を卒業し、札幌で大学生活を始めた私の前に、全く新しい世界が次々広がっていく感じだ。蓬髪、羽織袴、高下駄の応援団生活で得るのとはまた違っていた 私の身近に存在していた人で、私がちょっと及ばないと思っていた人に、応援団の氏平増之、阿部武丸、同じ学級の早田匡志、工藤正広、浜忠雄、寮の松尾嘉道、村瀬喜之、文学少女綿谷美智子、一緒に自炊生活もした佐々木洋(ガラさん)らがいた。 更に私が尊敬し、そんな風になりたいとも思った先輩は三人いた。三人とも僅か一年しか違わない大学生活のはずだが、到底追いつくことの出来ない距離にいた。同じ文学部で日々直接導いて貰えた向山征哉、地域の安保共闘会議の事務局員にも私を推薦した教育学部の国吉昌晴と、中国問題の理論化を勧めた重盛徹志である。 しかも今に至るも、恩人である彼等との距離は縮まっていない。
理学部だから縁のないはずの重盛だが、『中国近現代史入門』読書会に出て初めて顔を合せて以後、私は惹かれ続けた。重盛の願いに近づいて行きたいと思った。『孫文と宮崎滔天』の学習会もだし、先の「交換ノート」や入会した「日中友好協会」学生班の一員としての活動にも積極的になっていった。何かあればすぐ進修寮の重盛を訪ねた。話し疲れると、そのまま重盛のベッドに寝た。重盛は私が横になるのを確かめ机に向って勉強していた。
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