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作品名:『父の里の牛のように・「福岡拘置所3泊4日の旅」・丑の年の素敵な研修』 作者:あるが  まま

第14回   14 更に 思う
<14> 更に 思う

 私のようなじっとしていることの好きな者には、必ずしも人の言う「身震い」したくなるイヤな場所ではなかった。二舎に来てそう思うことだが、新聞だって回ってくるのだ。表に貼りつけてあるのを見ると指導課の責任で、一舎の3、4階にも回覧されているらしい。限られたぜいたくの中に居たということだが私はそうした恵まれた状態を享受していたことになろう。すこぶるつきの有難さなぞと二舎の生活を喜んでいた。牛はデリケートだが、ゆっくりゆっくり、「耐え」ている。

 しかしそれは、よく考えるまでもなく相対的な有難さであるのはまぎれもない。三舎の実態が拘置所の本質的内容を最も忠実に示している。そこには人間的な扱いはない。叱責。罵倒に次ぐ罵倒。自分の中の人間的なものを徹底して押しつぶされていく生活。矯正施設は再びそこを訪れさせないことが本務である。体で味わった不快感が第一の「教訓」という見方だ。甘さを残すことが逆に人間の弱さを見逃させてしまうということか。
 三舎は、ベテランの看守が殆どであった。憎々しげに振る舞うことで本務を全うしようとする気概が日常化している。国家が犯罪者=異端者にどう対処しようとしているかが端的に示されている。そういうものだからこそ、それを幾分かでも知る人たちは私の体験入所に賛意を示さなかったのであろう。

 それはそうなのだが、気概に燃えた看守たちが家庭に戻ったとき、どのような人間観を維持できるのか考えないわけにはいかない。人間と人間のクズとを分別して初めて全うできる仕事である以上、自分の子らへの語りかけにも反映するだろう。決してあんな人間達にはなるなの思いの切実さは伝わるはずだ。だが、それでいいのだろうか。人間みなきょうだいの思想とは対立するほかあるまい。


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