その9<心機一転>。
「明けましておめでとうございます。皆様にお世話になった一年でしたが、新たな正月を迎えます。いよいよ今年は、中国で仕事をする年だと考えています。2010年開催の上海万国博覧会が私を誘ってくれました。中国で働く夢は、毛沢東らの文化大革命で断ち切られていました。四十余年後の今、昔の夢に繋がる最初で最後の冒険をします。気障に言えば「玄海を跨ぐ日中の掛け橋」たらんとした諸先輩の志を共有したいのです。NHKドラマ『上海タイフーン』を観、この気持をより強くしていたところでした。皆様にとっても昨年より素敵な年でありますように。2009年(己丑)元旦 松野一大」
松野は、政治的課題について全く触れなかった。これまで松野は葉書でなく封書での賀状を送っていた。だから今年のはいつもと異なる。暫し日本不在になる事情を多くの人に送るため葉書を選んだからだ。その紙面に書けるだけの情報を書き込んだ。 高田陽子は、松野の賀状を東京の自宅で受け取った。予測していたことだが実際に松野が上海で仕事をするようになったら、中国で会う楽しみが増えると言うものだ。メールで伝えていたことだが、広東の海中水族館に一緒に行けるかも知れない。82歳にもなる高田だが、好奇心を膨らませ益々若やぐのだった。
加藤紅は、蘇州大学の大学院寮で松野の賀状を読んだ。叔父であり高校時代の恩師でもある松野が自分の住む近くにやって来るようだ。松野の中国語は役に立たない程度の中国語だから自分の役割が出て来るかも知れない。それは楽しみだ。だが、日本当時の事情をよく知る人が中国の自分の住む近くに来るのは、紅にとってちょっと嫌な気もする。
異郷で人は、見知った人が引越して来る時、嬉しい部分と嫌な気持とを持ちがちだ。 紅は日本時代とはまったく異なる人間として今生きている。中国には過去の自分を知る人が誰もいないからこそ自由に振舞うことが出来る。知った人がいれば昔の自分に引きずられて自らの言動を制約し兼ねない。紅もまた、多くの人と変わらない。
伊丹も松野からの年賀ハガキを大連の住居で受け取った。子どもの頃意味も分らず暗記していた一つが暦の呼称だった。「己丑」は音読みで「キチュウ」、訓読みで「つちのとうし」だ。中国語でも十干十二支が今に生きていることは、伊丹が中国のアチコチを訪問した際に気づいていた。中国語の発音で、己丑はji chouだから、日本語の発音もよく似ている。
しかし、中国の元旦は旧暦の春節とは全く異なる。太陽暦の1月1日は、1日祝日になってはいるけど、伊丹の目から見て特別なことは何もないに等しい日である。 それだけに松野の年賀状は、日本を懐かしがらせ、嬉しく華やいだ気分にさせた。 そして松野には、もう一つ嬉しいことがあった。休みを貰い31日の最終便で美玲が大連に来てくれたことだ。
これまでも病気になったことで二度訪問して貰っていた。だから驚くこともないはずだが、今度は仕事の手伝いを依頼して初めての訪問になる。その依頼分を実現させるために、美玲が住める貸し部屋を近くに探してもいた。それらの見学も含め、美玲の引越しを強く促す積りで待っていたのだ。
動き出した仕事は、元々ゆったり計画であるから思い通りに進んでいると言える。個人的には嬉しい2009年の始まりになりそうだと伊丹は素直に喜んだ。
美玲は、これまで病気になった可哀想な伊丹を世話するために大連を訪れていた。今回は少し違った。元気を取り戻した伊丹に会うために休みを取ったのだ。職場の羅王には、また体調が悪くなったらしいからと伝えて休みを取った。この小さな嘘が美玲の心を揺れさせている。
美玲は高校生の時、風邪で頭痛だと学校に嘘を言って、寧安の駅から一人牡丹江のホテルに宿泊する吉川を訪ねたことがあった。当時、若きエリート外務官だった吉川を運命的な人だと勝手に決め、追い駆けていた。今の伊丹をである。誰にも気づかれないように一人訪ねていた時の気持を思い出していた。あの時の一途な弾む気持は最早ない。しかし年老いたはずの自分が、どこかときめいているのである。
美玲は,伊丹が迎えに来たいと言うのを何度も断った。結局、伊丹が大連駅近くの中華書店で待っていることになった。それで美玲は大連バスセンターから伊丹の待つ本屋に直行した。暗く寒くなっているのに人の往来はまだ多かった。
伊丹は外国語本のコーナーにいた。美玲が近づいて来ると、伊丹は手にしていた本を書棚に戻そうとした。美玲はそれを制し、自分も思わず英語の本を探し始めていた。
「何を探したいのですか。」伊丹が驚きながらも嬉しそうな顔をして聞いた。 「ううん、ちょっと英語の本。」恥じ入るように美玲が応えた。
「英語を勉強しているのですか。」伊丹が一層喜びながら問うた。 「まさか。息子のための本ですよ。」
「素晴らしい。吉郎君も素晴らしい。やはりあなたのお子さんだ。」
伊丹はそう言うなり、そのまま本探しを手伝おうとした。 「伊丹さん、いいですよ。急いでいる訳ではないのですから。伊丹さんは何を探してあったのですか。」
「うん。CANCER つまり癌に関する英文の本。いやね。同じ癌について調べるなら勉強がてら英文を読んでいようと思って。しかしまだいい本を見つけていない。」
「伊丹さんって変らないですね。前向きで。勉強家で。でも心配です。」 「いや癌と言ってもね、今どこか悪い所がある訳ではありませんよ。切迫していないけど何となく気になり調べたいと思っているのです。それで同じ勉強するなら外国語の勉強を兼ねて、と。欲張りですね。」話はここで終わった。
伊丹は「じゃあ、もう出ましょうか。」と美玲を促し外に向かった。
寒気が襲って来る。美玲は早く伊丹の家に行きたかった。二人きりになりたかった。今までと違う気持がある。手をつないで歩きたかった。でもその気持を制して横に並んだ。
伊丹の事務所、二階の部屋は、掃除などしてよく知っているはずだった。しかし、自分がそこで仕事を手伝い、家事などを担うかも知れないと、今回初めて思うようになった。伊丹の要請を真正面から受け留めようとしていた。
「伊丹さん。今夜は伊丹さんの料理を食べさせてくれるのですよね。」 「あなたの望みだから、勿論用意していますよ。」伊丹は恥ずかしそうに続けた。 「出来るだけ日本の大晦日と元旦とを味合わせたいと思ってます。」
部屋に着いた。集中暖房で部屋は暖かく、歩いて来た二人にはむしろ汗が出そうだった。熱いお茶を飲みながら、年越しそばを用意した。
ふうふう言いながら食べる白髪の混じった老いた美玲を伊丹は見た。美玲と初めてあった頃のひた向きな表情を思い出していた。今でも可愛い、心底思った。
|
|