その8<大学出の進路> 世界が、そして日本も中国も、大きく揺らいでいた。アメリカ発金融危機の深刻さは底が見えない。そのアメリカでは黒人初の大統領が誕生した。 松野は考える。今後ブッシュ時代の負の影響が一層明るみになろう。民主党の保護主義の影響で、「日本バッシング」が出て来る可能性もある。しかし肝腎の日本政府は、アメリカの時々の政府に擦り寄る日米安保体制の従来の枠を外すことなど出来まい。
亭亭は、政治状況の動きとは無関係に自分の進路のことを気にしていた。どこの大学院でどんな専門的内容を学んだらいいかの判断が揺らいでいた。
亭亭は迷っていた間、東邦大学高向教授らの紹介で、幾つかの大学院の先生達に会うことが出来た。研究すべき課題設定の方法や入学試験に合格出来るだけの勉強方法も学んで来た。何よりも大学院で学ぶ場合、担当教授の受け入れの是非が決定的らしいことも、亭亭は理解出来るようになった。
高向は、亭亭が自分たちの大学から去ろうとしていることに不満だった。しかし、親友の伊丹だったら亭亭の希望の実現のために努力するだろうと考え、思い直すことにした。伊丹の役割を肩代りする積りで、各大学の知人に対し亭亭と会ってくれることを依頼した。
この過程で亭亭の気持も少しずつ定まって来た。亭亭が希望したのは、日本に来て世話になっている高向教授の親友の一人、西海道大学華教授の下での大学院生活だった。英語の試験などもあるのだから、それらも勉強して希望を実らせたいと考えた。 亭亭は、「民俗学」を学びたいと思っていることを松野にも伊丹にも伝えた。
松野の感覚では、大学で学んだことの延長上にしか大学院はない。院ではより深く専門的に学ぶものだと考えていたからだ。大学の先輩が、中国哲学を学び、大学院では中国文学だったことさえ、少し驚いていたものだ。同じ中国の文章を読む研究だから第三者はその違いを違いとして感じない程度の違いではあってもだ。
松野は、亭亭の進路希望を聞いて一応の理解を示した。大学で日本語を学んだからと言って、日本で日本語学を学ぶのは容易でない。日本語教育方法論であっても、言語に対する興味が強くなければ大学院での授業には耐えられないかも知れないのだ。
伊丹は、亭亭からの報告を受け、日頃の思いを新たにした。中国人留学生の大学院希望が、中国での学歴重視の傾向を直接反映していると思っている。
亭亭の学んだハルビン師範大学もだが、中国では、大学の日本語科を卒業しただけで、そのまま大学で日本語を教えている教員もいた。日本との違いに伊丹は少し驚いていた。それが何時しか著名な大学になればなるほどだが、修士終了を講師採用の条件にし、そうかと思っていたら、すぐ博士課程終了を要求するようになった。わずか10年の間に当初の予想以上に大量の大学卒、そして少なくない修士修了者を生み出していたことと関係しているはずだ。だから亭亭には同じ大学院に進むなら博士課程も修了して欲しいと伊丹は願っていたのだった。
亭亭も事態の変化を認識していたし、せざるを得なかった。中国に戻って従事する仕事のことを考えるのだ。日本のどこの大学院に合格出来るかどうかをまずは気にした。そんなこんなの中で、周囲の人に恵まれての「民俗学」選択だった。修士の後、博士課程に進んでもいいと思える研究テーマが生まれそうな期待も持てる。
蘇州大学大学院修士課程を修了した濾艶淑は、博士課程を学ぶか迷っていた。友達の日本人留学生加藤紅は艶淑に日本留学を勧めた。日本の大学の博士課程に学んで、いずれは中国の大学で日本語を教える仕事に従事することが艶淑に一番似合うと考えていた。だからそのことを加藤は強く示唆した。
新自由主義の政策が導いた金融危機は、個々の留学生に様々な影響を与えていた。 日本でアルバイトして得たお金で中国留学を続けてきた加藤にとっては、円高だと少し金持ちになった気分になれる。逆に言えば、中国人の日本留学は楽ではない。もっとも艶淑などが留学する場合、中国の元を持って日本に行くのではない。日本でアルバイトをして大学生活の一切を稼ぐのだから、円高であろうとその限りでは関係がない。それでも留学希望を後押しするのとは逆に、控えさせる作用として働いた。
艶淑は加藤の勧めを考慮してはいたが、異なる判断を下した。早く一人前に仕事をし、これまでの学生生活で多大な苦労を掛けた両親に楽させることを選んだのだ。
広東を一度考えたが、上海の日本関係の会社に就職することを目標にした。 インタネットでかなりの数の会社のホームページを検索した。探す内に興味を抱かせる会社も見つけた。会社案内の文章に惹かれるのだ。
「新コスモス電機株式会社は設立以来、独自のガスセンサ技術を活かした家庭用ガス警報器、工業用定置式ガス検知警報器、携帯用ガス検知器、さらにはニオイセンサとその応用商品など幅広い分野の商品を開発し、皆さまにご愛顧いただいております。 私たちの「安全で快適な環境づくりに貢献したい」という想いは、昔も今も、そしてこれからも変わることはありません。時代の一歩先を見据えた柔軟な発想でオンリーワン商品を開発する。私たちは挑戦という歩みを止めることなく、社会に貢献できる商品をお届けしているという誇りと使命感を持ち、着実に進んでいきたいと考えています。」
この企業は、1997年上海市煤気公司との合弁会社を設立し、2007年7月にはその合弁会社とは別に、自社資本の新コスモス(新考思莫施電子)上海有限公司も立ち上げた。
艶淑は、現地採用の秘書兼通訳が相応しい仕事だと思った。しかし最初からその望みが可能になるとは考え難い。まずは事務職員で採用されることを願った。 面接は日本から来た盛田社長も交えて行われた。艶淑は臆することなく自分の夢を積極的に語った。自分の発言に艶淑は満足していた。しかし、採用されなかった。
盛田社長は不採用に同意した。その上で、当日の面接責任者である胡副社長にその理由を問うた。日本語もだが日本人的心を理解する胡を盛田は高く買っている。胡は語る。 「中国人を選ぶ場合、日本の若者にない部分を補いたいと思います。しかし持っていてはいけない部分もあります。ハングリー精神はいつでも大切。途中で諦めないのはそれが条件。しかしハングリー精神は貧しさだけがあればいいものではありません。知的に飢え、知的好奇心に満ち溢れてい、しかもそれが表に出て来ることのない謙虚さが不可欠です。今回の濾は、自分が優れていると自惚れているから不採用が適当だと判断しました。」
盛田はまったく同感だった。知的欲求は己の至らなさを自覚することが前提だと思っている。謙虚さは同僚と共に前向きに仕事をする時に必要な資質だからだった。
加藤紅は艶淑の不採用を聞いて、「駄目な会社なんだから気にしないことよ」と慰めた。心から思っての台詞だった。だが、艶淑のしゃべった内容を聞いて意見が変った。
日本では控えめに生きていた紅である。それが中国に来て変った。優秀生だと自他共に認める。一方で自信過剰な自分への嫌悪感も覚えていた。これが意見変更を促したのだ。
|
|