その6<バイクの中国人>
福岡市内から筑豊地域に抜ける峠は、犬鳴峠と八木山峠である。
松野は珍しくインタネットで地図を調べた。飯塚を経るには八木山峠の方が便利だ。 この峠の頂上のその少し福岡寄りの所で原動機付き50cc自転車がわき道に入り込んだ所から薮中に落下、炎上し、死亡した事件が報じられた。 原付の持主は中国人留学生で、焼け焦げた服から出て来た免許証からも本人の名前が読めたと警察は発表し、当該生が所属する成蹊学園にも連絡が入った。
この一ヶ月、成蹊学園では心配せざるを得ない事情に遭遇していた。二人の留学生が相次いで欠席し連絡も取れなくなっていたのだ。
成蹊学園は歴史ある専門学校である。それまでの日本人学生だけでなく、中国人留学生対象の授業も組み込み順調だった。スタッフもしっかりしている。欠席があると学級担任が必ず電話連絡をした。そうした学園でも中国人留学生を受け入れ始めた最初の時には一人の行方不明者を出していた。この事件を教訓に成蹊学園では二度と出すことはなかった。
成蹊学園ほどでなくても他の日本語学校で行方不明者になる中国人は、最近では激減している。その意味でも、今回の二人の長期欠席と連絡不能に陥った事態は深刻に受け止められていた。警察にも入国管理局にも届けていることを、時間講師でしかない松野でさえ学園側から知らされていた。
そして今その内の一人の名前と死亡とが告げられたのだ。、
学校からは一番よく知る担任が病院の安置室に立ち会い、本人であることを確認した。と言うより、体中も包帯だらけだったし、その時包帯を外された顔を見たのだが、焼け爛れていて誰か分らない。たが、血液型はO型だと言うし、身長などから当人だろうと担任は思った。
「間違いありませんね」と厳しく問われた。 担任は、それでも「私は確認できません。」と応えた。 「それでは困る。誰か確認できる人を呼んで欲しい。」 「誰と言われても、この状態では同じと思います。もう少し調べる方法はないのですか。」
「状況的にも疑いようはないでしょう。念のための血液型照会でも合致していると学校の方で認めているではありませんか。」
指紋とかDNA鑑定などはこんな場合にしないのだろうかと一瞬思ったが、担任は警察の要請を拒めなかった。そして学校の方にその経過を報告した。
学校としてはすぐ中国の父母の元に悲惨な結果を連絡する外なかった。
亭亭は大学院の試験が近づいてきて、一層の猛勉強に励んだ。 それと併せ身近な日本事情に触れる機会も大事にした。松野の大学院受験についての考えも反映していた。
松野が、大学の授業を聞きに行かないかと亭亭を誘った。 亭亭は初めて松野のスクーターの後部座席に座った。田川市の福岡県立大学で集中講義をしている山川の講義を聴きに行くためだ。 立命館大学山川教授が京都から出張して来ることは、社会学部への希望を告げた時点で、松野から知らされていた。福岡を離れて関西などの大学に進学する気持は薄かった。それでも、社会学やその中の福祉関係に関心が移ってきた亭亭には、松野の勧めに従っても損はしない話である。
亭亭は福岡市東区にある福岡県立図書館にまで出かけて調べ物をする日を、松野に同行するその日に合わせた。 この図書館からバイクでは10分足らずの距離に松野がバイトをする成蹊学園はある。午後、松野は仕事を済ませ図書館まで迎えに来た。亭亭は125ccスクーターに跨った。ちょっと怖かった。
松野は、初めてバイクなどに乗ると言う後部座席の亭亭の気持にも気を使った。福岡市内を抜け、粕屋町、篠栗町をゆっくり走った。 八木山峠を上りながら、中国人留学生の不幸なバイク事故について松野は亭亭に話した。松野は50ccの怖さも喋った。
スピードを出し過ぎると急ブレーキをかけた時、車体がぶれて転倒することが多い。松野自身が若い時分に経験したことらしい。しかも今回の事故は、落下していく際に当たり所か悪かったのかガソリンタンクに引火してしまった、と言う。
亭亭はそんなものかと松野が前を向いたまま大きな声で話す内容を聞いていた。50ccは危険なものなのだろう。亡くなった男は、何を急いで事故を起こしたのか。亭亭は同年代中国人留学生のことを少し考えた。
それでも亭亭は大学院に合格したら中古の50ccバイクを買う気持になっていた。自転車は好きだった。しかし色々な活動をしようと思ったら、自転車では限界がある。そのもどかしさはこの間に十分過ぎるほど味わって来たことだ。 母親の郭明は自転車ですら買えずに50年間生きて来た。ましてやバイクなど贅沢品だと郭明は考え、亭亭もこれまでそう思ってきた。が、その母親も日本生活に慣れるにつれ、娘の考えの変化を暖かく見守って来た。大学院に合格出来たら娘が自身への褒美として購入すると言えば親として援助したい気持にも郭明はなっていた。
日本事情理解の一端として、自分の住むこの地域を勉強することは当然だった。亭亭はアルバイトの事情が許せば、藍の家の単発的な催しにも時々参加した。
松野が津屋崎千軒『海とまちなみの会』で地域発展について問題提起することを知った。アルバイトのシフトの隙間を狙って出向いた。 中国にいる間の亭亭は、町づくりなど興味もなかったし、考えることもなかった。しかし、ここ日本では名もなき小さな町でも市民が考えようとしていた。驚きである。
自転車で片道10q余、小一時間走る位は苦にならない亭亭だった。自転車を走らせて集会に間に合わせ、終ればまた周りの心配も気にかけない様子で走り戻った。
玄界灘支部事務所で昔の映画を観る予定だと松野が中国語日記に記していた。少し話題になっている小林多喜二の『蟹工船』を映画化した作品らしい。もう半世紀も前の映画だし、亭亭は迷った。日本に留学して来て、近頃は人の話を聞くことにかなり自信が出来ている。しかし、映画ともなると、簡単ではない。
映像があるから理解はしやすい。それでも会話部分は難しい。以前周防正行監督映画『それでも私はやっていない』を観ていた。日本の裁判事情がよく分った。だが登場人物の会話で意味不明の部分が少なからずあったことは亭亭自身がよく知っている。それもあって、今回の映画は観ない、と亭亭は松野に伝えた。
|
|