その5<二人の第一歩の>
伊丹は、大連の事務所を確保すると、すぐ会社設立の正式申請を行った。大連外国語大学の友人車偉孟教授を通じ、退職直後から事前準備をしていたから、設立許可の見通しは十分だった。
大連で動き始めてから、伊丹はその日の言動を「業務日誌」と名づけパソコンに入力した。併せて、その文面をプリントアウトしその都度美玲に手紙で送った。
伊丹は仕事を急がなかった。しかし、仕事に追われる感じを抱くことがあった。事務所の掃除、机と椅子の調達、電話設置の見送り、仕事用携帯電話の取得、インタネットの接続、名刺作成、と忙しく走り回らされる思いもしていた。その一方、大連外国語大学はじめ、理工大学、遼寧師範大学などを訪問し、車偉孟ら旧知の教員と様々な会話を楽しんだ。日本語関係の学部長職の教授に忘れず名刺を配ることも続けた。
それらの事情を美玲も一応は承知したことになる。美玲は日本語の勉強になるからと言い聞かせていた。しかし伊丹に感想を述べるほどには読んでいなかった。
ある日を契機に伊丹はだるさを覚えていた。鼻水も出だし軽い風邪にかかったようだ。バスタブに湯を張り身体を沈めた。少し気分はよくなって、牛乳を飲み、冷凍している餅をレンジで軟らかくし、黄な粉にまぶして食べた。パソコン入力もせず、そのままベッドに横たわった。暫く経つとまた鼻水が止まらなくなる。額に手をやると酷く熱かった。 翌日も翌々日も伊丹は、有り合わせのモノを口にする時以外、ベッドの中で苦しんでいた。本格的な仕事が始まっていない内の病気でよかった、と伊丹は思った。
日本にいた時、一年か二年に一度風邪を引いていた。授業など仕事を終えると年休を取って家に帰ったが、伊丹が病院にかかることは全くなかった。
今異国の地で一人ベッドにいるのだから早く元気にならなければいけないと思った。しかし今回は、日本にいた時のような回復の兆しが一向になかった。だから「業務日誌」の書きようもない。美玲に連絡したいが、言って心配させることも好まなかった。
三日続けて伊丹からの郵便物が届かず美玲は少し気にした。四日目も来なかった。 美玲は初めて伊丹に自分の方から電話をした。しかし、つながらなかった。 心配しない訳にはいかない。店主の羅王にお願いし、早朝の仕事だけをして休みを貰うことにした。寧安から丹東に引越しして以後初めて丹東を出ることになる。長距離バスに乗るのも初めてだ。昼前後に大連に着いて、夜には丹東に戻ることにした。 伊丹が仕事開始の頃封筒に入れた「業務日誌」とは別に送っていた事務所の地図は、以前一瞥しただけだった。今度訪問する気になって、改めて見た。息子吉郎が社員だった頃勤めていたブルーワールド社の近くのようだ。吉郎を会社に訪ねる約束の時間の前に大連外国語大学の構内を歩きながら若い頃の夢をも思い出していた。が、あの時の大連行きで、息子の犯罪を知ることにもなったのだった。
貧しくもささやかな夢を追うことの出来た日々から、一転、息子の刑期満了を待つだけを自分の残りの人生に課してきた。その因縁の大連に今美玲は行こうとしている。
それらの感傷を全て捨てて、ただ大連行きのバスに乗った。
大連駅近くで降ろされた。
群れてくる人を押しのけるようにして、近くの店に入った。店の前の道がやや上りになっているのだが、地図を見せるとその道を進んで突き当たれば外語大だと言う。
美玲は歩きながら,以前歩いた時の景色を少しずつ思い出してきた。
大連外語大正門からブルーワールドと逆に左に曲がって進むと、雑貨屋、食堂、果物屋などがゴタゴタ並んでいる。その一角にひっそりと伊丹の事務所兼住居があった。
窓越しに人の気配はない。声を掛けても返事がない。ドアには鍵も掛かっていない。ドアを開け中に入った。小さな部屋だ。案の定誰もいない。大声を出して呼んだが返事がない。仕方なく二階に通じる階段を上った。狭くて急だから大柄な美玲は余計に一段一段慎重に上がった。
上り切ってドアを開けると。左に小さな流し。右はドアを開けたままのバスタブと便器が見えた。奥の方にベッドがある。
美玲は先に進もうとして慌てて靴を脱いだ。「靴を脱いで下さい」と律儀な伊丹の文字に気づいた。床に紙が貼り付けてあるのだ。
ベッドの側までくると伊丹の白髪混じりの頭があった。枕元の小さな机の上に、牛乳が底に白く残ったコップ、黄な粉のついた皿と体温計があった。
美玲は小さく声を掛けた。「伊丹さん」。 伊丹は何も応えなかった。熱にうなされ顔を少し左右に振った。
美玲は帰ろうかと思った。だが、帰っても今日は仕事がない。夕方までは伊丹が起きようと起きまいと待つことにした。
美玲は可哀相になった。黙って卓上の食器を流しに運び、洗った。台拭きで枕元の机を拭き、併せてパソコンとプリンターが乗っている大きな机も拭いた。このパソコンでいつも「業務日誌」が書かれ、プリントアウトされて美玲に送られていたのだ。携帯電話も無造作に置いてある。
伊丹にまた声を掛けた。赤味がかった額に手をやると熱い。トイレ兼バスタブに掛けてある手ぬぐいを水に濡らし固く絞った。額に乗せた。気持がいいのか分らない。何度か取り替える内に、伊丹がうっすら目を明けた。
伊丹は、自分がこのまま駄目になるのかと思っていた。
始めようとした仕事に不安はない。しかし、この部屋に一人いて酷い病に陥り、他人が気づいた時は死んでいた、などにはなりたくないと不意に思うこともあった。
伊丹が自分で知る限りこれ程の高熱は二度目である。前回の時、妻が看護をどうしていたか記憶にはない。が、冷たいタオルが気持よかった気がする。 不図目が開いた。側に人の気配を感じて思わず身体を起こそうとした。 「目が覚めましたか。よかったです。でも動いては駄目です。」 遠く近くに声が響いてきた。誰でもない。美玲だった。
「美玲さん。あなた、どうしてここまで。」と起き上がった。 「横になって下さい。私は、大連に用事が出来て来ました。気にしないで下さい。」 「ありがとう。ありがとう。」と言いながら伊丹は手を伸ばした。
美玲は伸びてきた伊丹の手に触れた。熱かった。それで一層可哀相になった。
何日一人でこの小さな部屋に横たわっていたのだろうか。伊丹は誰にも窮状を伝えていないのだろう。そう思うと美玲はまた少し重たい気分になる。 でも丹東に戻らなければならない。茹でて冷凍保存されていたトーモロコシでお粥を作って帰ることにした。伊丹が吉川だった頃、美味と言ったことを思い出したのだ。
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