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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第4回   4 テレビの向うに
その4<テレビの向うに> 

マスコミ、とりわけテレビの影響力は大きい。北京オリンピックを前に、テレビで煽られてきた一部選手は、自分が優勝するものと思い込んでいく。世界中の有力ライバルの方は向上しないと見なしていたのだ。これら二重三重の錯覚が敗北に陥れるのだろう。テレビに映る様々な情景に自分らの平凡な生活の縮図を見る思いでもあった。

松野は開会式のテレビを観ていた時に、選手団入場に際し、迎える若々しい中国人コンパニオンたちの振る舞いが面白いことに気づいた。声をかけ足を交互に動かし手を叩き続ける者もいれば、疲れたか飽いたかで暫し動きを止め、また己の役割を思い出し手を打ち始める者もいた。その影響からか、競技と別に応援席にいる中国人の振る舞いにも注目していた。もしかして反日の雰囲気が映るかも知れないと心配することもあった。観客の仕草や表情自体が人間的で想像力が働いた。

高田陽子は、安徽省黄山に自宅売却のために出向いたことを松野に手紙で知らせた。そのうち日本に戻って福岡にも行きたいと記していた。松野は楽しみにしている旨の手紙を出そうとしたが、モタモタする内に高田関係の手紙など全ての書類を入れた大封筒を不手際で失ってしまった。中国にいる間の高田はメールも出来ないとのことだったから、連絡方法はない。

高田は持ち家の売却に当初の予測以上の時間を取られていた。不動産景気が下向きに変わったことは北京から遠く離れた安徽省でも無縁でない。気にならないわけでもないが、それでも高田は慌てる必要もなかった。大連に住む娘からの気分転換の勧めに応じ北京オリンピックを見に行くことにした。開会式入場券を手に入れるのは難しかったので、競技を見に行くことにした。柔道応援券を比較的容易に手に入れた。

高田は横浜から東京に出る時に、国士舘大学柔道部員に時折出会わすこともあったのだが、柔道などの格闘技系が好きでもあった。亡き夫が結婚前後に福岡県警の柔道場で少しの間練習をさせてもらっていたからその後も好意的に見ていたこともある。

柔道で金メダルの本命とされた鈴木桂治が1回戦で敗れた。主将の任が重すぎたのだろうか。敗者復活戦を高田陽子は間近に見ていた。
この復活戦でも鈴木桂治は負けた。その場面は繰り返し日本で放映された。

松野は勝つはずとされた選手が負けたことを自宅のテレビで悲しく観ていた。

その時、画面に高田陽子を見つけた。元気そうでテレビを観ていてよかったと思った。その右側の女性は高田陽子の娘だろうか。左にいるのは誰だろう。無関係の人とは思えない。しかし、その男性は直ぐ席を立って画面から消えた。知人と見たのは松野の勘違いだったのかも知れない。

余りスポーツ番組を見ない松野だが、一度観たオリンピック放送の延長で、パラリンピックの開会式や一連の競技も観ることになった。華やかな聖火に点火する場面はパラリンピックの方が松野は好きだ。車椅子の自分を自分の二本の腕でロープまま引き上げていく。途中二度の大きな息継ぎをしながら、50mもの高さを上り切り点火した。素人っぽい設定が余計に感動を与える。同じ張芸謀演出なのだが、オリンピック時の開会式の場で宙吊りで走って点火する場面も、パラリンピックを知るとそれが少し色褪せて思い出される。

そんな気持の中、高田の手紙への返事をメールで送ることを思い付いた。

高田陽子様
真に恥ずかしいことですが、連絡をしないまま、高田さんの日本帰国を待つことになりました。高田さん関係の一切を入れている大封筒がどうしても見つかりません。だからどこにも手紙を送ることが出来ないでいます。万事休すの中で、メールアドレスに送ることにします。高田さんが何時か横浜に戻られてから目に触れて貰えたらいいなと思います。
以下は、手紙を貰った時にすぐ書き始めていた文です。二ヶ月近くも前のものです。
高田陽子様
お手紙懐かしく嬉しく読みました。売却が遅れているようで気になります。ですがその分、中国に親しむ時間が延びたのだ、と読むことにしました。
四川大地震は日本でも報道されていました。私たち日中友好協会福岡県連でも、また結成したばかりの玄界灘支部でも、他の個人、組織同様、支援活動を取り組みました。福岡の専門学校で教え子となった中国人留学生にも喜んでもらっています。
私の母親の感じでいる高田さんが、今でも玄海を跨ぎ中国を隣町のように軽やかに接していらっしゃるのを見聞きし、私もやっと思い切ることにしました。来年8月末には上海に仕事場を見つけ二年間の中国生活を計画しようとしています。上海万博以前と以後2009年〜11年の二年間の中国生活を体験したい気持は一層膨らんでいます。
松野一大

高田陽子から松野に意外や返事が来た。オリンピック後日本に戻っていたのだ。

「中秋の名月も明日。昨年は帰国途上の船で関門海峡の橋の近くで心行くまで見ることが出来ました。今年は長女方の小さい庭で見られます。広東の広州市の月餅は最高です。友人に頼んで送って貰っていました。何時か松野さんにも試食して頂きたく思っています。広州に宋代に沈んだ船をそのまま水中に沈めた博物館が出来るそうで、見たいと思っています。今私は週一、大極拳と中国語の教室に通っています。ちっとも上達しませんが。東京にお出かけの節はご一報下さいませ。どうぞ御身大切に・・再見」

松野は短くだが直ぐに返事を書いた。中国での修羅場を掻い潜って来た偉大な経済人は、その片鱗を見せることなく、いつも謙虚だった。松野はこの高田を尊敬している。

松野は、この高田の生き方にも励まされる感じで、日中友好協会運動に励んできた。そして、かねてからの夢の一つを具体化したいことを高田への手紙にも書いた。一年後には中国で仕事をすると言うことだ。それもあって、今年色々な学習を始めた。月2回の「中国語会話」と「二胡」教室に通い出した。それらと併せ「中国語日記」もつけることにした。この日記の中国語を時々まとめてだが亭亭が添削した。

伊丹が中国に行った後、亭亭にとって母親の郭明を除けば身近な人間は松野だけだった。バイト先でも、自習する図書館でも、若い日本人や中国人学生が何かと声を掛けて来ている。しかし、亭亭は無愛想にする積りはないが、軽く受け流すだけだった。

ストーカー的男に殺されかけた亭亭である。男不信は消えそうになかった。その点、松野については亭亭は安心だった。お爺さんだが、男であることを意識することもない。

この老人は、亭亭が予想していた以上に物知りのところもある。軽く聞いていると思いも寄らない厳しい要求もある。時折ムッとさせられることもある。だが、付き合って損にならないと亭亭は思っている。


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