その3<環境の変化の中> 大連外国語大学は中山広場から南に延びる延安路の突き当たりにある。日本統治の時代は、東・西本願寺や護国神社が造られていた地域だ。中国人の心の支配を謀った象徴的場所でもある。その東側に伊丹二郎は小さな部屋を借りることにした。二階が住居、一階が事務所である。古い建物だが伊丹は満足していた。 丹東のホテルで美玲に会った時、今後の計画を述べた。美玲は黙って聞いていた。 伊丹にすれば、部屋が確定し仕事が始まれば事務員を必要とする。その時は美玲に手伝って欲しいことをも伝えた。しかし美玲は無反応だった。 伊丹自身の考えは、日中の架け橋としての役割を果たし続けることだった。日本企業への人材派遣と日本留学の斡旋を兼ねた業務が、伊丹には適当だと考えていたのだ。 美玲が一度口を開いた。仕事の成功を危ぶんでだ。伊丹は勤めていた東邦大学から「中国在住連絡員」の役割を貰っているから心配はいらないと応えた。大学としては「功労者手当」の積りだが、他大学のためには仕事をしないことの暗黙の了解の下、非常勤理事待遇として15万円(1万元)が伊丹の個人口座に振り込まれている。 贅沢をしない伊丹には、4000元の借家料を払っても十分な額だった。 美玲にはときめくものはなく、丹東を離れて大連に引越す気持はなかった。刑務所に服役中の息子、商吉郎の面会があるし、今の食堂での掃除や食器洗いの仕事に不満もないからだ。 オリンピックが近づいたことで良くも悪くも慌しくなっていた。公共心育成もだが、観光事業の配慮が重視された。外国人に好印象を与えることが大事だと言うことだ。しかし、外国人の前に出ることもない美玲たちの多くには何も関係ない指示だった。
亭亭は、日本での大学に通う生活にも慣れてきた。アルバイトにも慣れた。 亭亭の母親郭明には慣れるとかはなかった。仕事を始めたその日から言われる通りの仕事をこなした。言葉が通じないから見よう見まねでする他ない。だが、「言われたことを違えることはない」と、会社の上司は、郭明を紹介した伊丹の問いに嬉しそうに答えた。 亭亭は夜のアルバイトが済んで帰ってくると、時々インターネットを楽しんだ。伊丹が配慮してくれた小さなアパートに満足していた。郭明は、いつも遅く帰る娘の亭亭のために夕食を作って待ち、一緒に食べるのを当然としていた。 食事を済ませると、後片付けは亭亭が受け持っていた。 亭亭は自分の部屋に入り、日本語の勉強をする。併せて大学院に入るための準備をする。研究テーマの絞込みが担当の高向教授から要求されていた。 亭亭は日本に来た際、無難な進学の道として薦められ「中国文学」を選んだ。その中で「老舎の『家族』」に一応決めていた。しかし近頃は、中国でなく日本社会の「家族のあり方」など日本的特性に一層興味を抱くようになった。東邦大学には設置されていない学部への進学となると、高向教授や伊丹の期待に直接応えないことになる。それを気にして、一度は自分の迷いに決着をつけていたはずだった。しかし、近頃はまた「日本事情研究」の希望が膨らんで来た。自分の道が豊かになりそうなのだ。 インタネットで「社会学」を調べることが多くなった。 メールを出すのは、その過程で見出した関係大学の教員だけだった。とは言え正確には、初めてインタネットをした時、中国在住の呉雲雪に送っていた。 雲雪との出会いも不思議だ。亭亭は、日本に留学する前に伊丹に勧められて中国内陸部の旅をしていた。この時に新疆ウイグル自治区省都ウルムチの西、烏蘇市郊外の農家に泊めてもらった。有り難い限りだが誘ってくれたのが雲雪である。翌日別れる時に雲雪はメールアドレスを書いて亭亭に寄越していたのだ。 雲雪から3ヶ月何も返事がなかった。しかし、亭亭は気にしていなかった。 亭亭がいつもの通りインタネットの検索を試みようとしてパソコンを開いた。メールが来ていると出た。雲雪からだった。驚いた。 雲雪が10人ほどのグループに同時に送ったものだが、亭亭のアドレスもその一員として登録されているのだ。添付ファイルを開けると動画だ。満員の電車に更に人を押し込んでいる場面だった。亭亭は話に聞いていた東京かどこかの朝の風景だと思った。 それで、亭亭は「日本に来ているのですか」とメールした。 雲雪の返事にまた驚いた。「上海の地下鉄」と言う。上海もそうなのかと、自分の無知を理解した。母国中国の今を知る努力の必要性を感じた。 北京オリンピックが始まった。テレビなど見ることの少ない亭亭でも知っている。しかし、夢中になることはない。大学院進学準備、日本語理解とアルバイトで、他に関心を持つ余裕はなかった。 ところが、また雲雪から写真が送られて来た。インタネット上に公開されていたらしい開会式の幾つかの場面だ。綺麗だなと素直に思った。それ以上でも以下でもないのだが、亭亭は雲雪にお礼のメールを返した。「国旗掲揚に関わる軍人達」の赤い場面が一番印象に残った。中国は好きだが、丸ごと誇る気持はない。「勉強、勉強」と自らに呟いた。
8月8日、北京オリンピック開会式は、映画監督張芸謀が演出すると言うのも知って、松野はテレビを観た。張芸謀の華麗な彩りの演出を素直に魅入っていた。65年間オリンピックは横目で見る程度だった。中国と言うだけで最初から最後まで見ていたのだから、松野自身驚きである。 その後の試合も時間が許せば観た。 1964年、東京オリンピックの時、松野は大学生だった。日の丸の押し付けに危険な日本の舵取りを感じ取っていた。当時の多くの学生同様、松野はテレビなど見ることもなかった。新幹線が開始されたことで、札幌・博多の帰省費が上がった。貧しい者の多くにはいい思い出はなかった。ただ家庭教師をしていた小学生が競技のイラストを書いて見せていたのが面白かった。 松野は、この2008年夏の久し振りの旅で札幌に行き、40年前の日中友好協会札幌支部学生班の仲間たちとオリンピックの話もしていた。 退職してすぐの2004年アテネオリンピックには関心の薄かった松野だったが、今年は北京オリンピックである。松野は家に居るとテレビをつけ競技もよく観た。その間、競技者の事前の目標や練習振りを知ることもあった。努力し目標を達成する選手に対し、松野は偉いなあと心から感心した。 一方、危うさを感じたのは、「金メダルを日本に持ち帰る」と言う台詞だ。大言壮語も嫌いだけど、松野は偏狭とも思えるナショナリズムを恐れる。「日の丸 大和魂」もだし、中国の「中華思想」にも馴染めないのだ。
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