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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第2回   2 ニーハオ玄海
その2 <ニーハオ玄海>

松野はいつもの通りに6時過ぎに目が覚めた。前夜も眠れず、2時近くまでパソコンに文章を打っていたのだが、何時に眠りに就こうと朝早く目が覚めてしまう。若い頃は起こされるまで寝ていたのにと、おかしくなる。眠り続ける体力がなくなっているのだ。歳を取ってしまったことを、このことでも松野は否応なく感じる。

でもその日、松野は殊のほか元気だった。いつも通り朝食を7時前に済ますと、「ニーハオ玄海」の事務所に車で行った。昼のお祝い会のため部屋を改めて整理した。

それから前夜DVD映写で使用したプロジェクターを福間中央公民館に返し、そこを出て結成総会会場になる「ふくとぴあ」の職員に挨拶した。そしてJR福間駅に走った。小倉から来る日中友好協会福岡県連副会長の原博道が到着するのを迎えるためだ。

原を乗せ会場に戻った。岩瀬らが、「ニーハオ玄海」結成総会の準備を済ませようとしていた。古賀が書いた横断幕は松野の予想を超えて見事だった。大判の中国全図や日中友好協会が主催する風雷京劇団公演の宣伝ポスターも、中国の雰囲気を醸し出していた。

松野は一層嬉しくなる。その気持のまま再び福間駅に行き、少し遅れて到着する亭亭を迎えた。松野にとって亭亭の出席は何より嬉しいことだった。

その日、正式に「日本中国友好協会玄界灘(宗像・北粕屋)支部」は結成された。正式略称名を「ニーハオ玄海」とし、ブログも作った。福岡支部から励まされ、いささか気負いながらの独立だった。

伊丹は大連のインタネットカフェーで結成事情を伝えた玄界灘支部「ニーハオ玄海」のブログを見た。松野に頼まれた以上この支部の動向は無視できない。「おめでとうございます」と一言書き込んだ。ほんとはもっと書くべき内容が頭をかすめた。しかし、時間を取りたくなかった。美玲のことでしなければならないことが沢山ある気がしている。

美玲は鴨緑江で別れる際に、伊丹から日本に留学する亭亭の住所も聞いた。それで、息子の殺人未遂で済んだ犯行について、亭亭に手紙を出した。美玲は、息子吉郎が亭亭を殺そうとした犯罪行為の弁明などを書く積りはなかったはずだった。だが、紛れもなく弁明であった。

「中国で時々話題になったけど、そのストーカー的な犯罪ではないと思っています。でも私の息子は諦め切れずに追い掛け回していたのだから、ストーカーと言われても仕方がありません。どうしてそんなことをする息子になったのか、母親として反省します。
子どもに言い聞かせていたことは、幾つかありました。勝負に負けるな。口にしたらどんなに苦しくてもやり遂げなさい。勝負は生きるか死ぬかでもある、と。しかし、死んでは元も子もないことも、息子には伝わっていたはずです。こんな意味のことを小さい時、特に学校に行くようになってからは言い続けていました。それにしてもどうして殺すなど恐ろしいことを息子が思い付いたのか、今でも信じられません。亭亭さんと一緒に死ぬ気などははなかったでしょう。しかし死んでもいいとか、見つかってもいいとか、どこかで思うときがあったようです。捨て鉢の気持からでしょうか、何か悟りの気持になったからでしょうか、どちらの気持もあったようです。」

この手紙を亭亭は読んでなかった。亭亭は、「破って捨てた。吉郎とその親とのいかなる関わりも一切切り捨てたいからです。」と淡々と伊丹に伝えた。

伊丹は、亭亭宛の手紙の「下書き」を別便で美玲から貰っていた。美玲は伊丹にも読んで欲しかったのだ。

伊丹は最後の中国行きだと考えて出向いた丹東で、かつて愛していた美玲と奇跡的に再会できた。その美玲と別れても、そのまま福岡には戻らなかった。もともと大連空港から成田空港行きの航空券も購入していた。

伊丹は東邦大学での大きな最後の仕事として、中国各地の大学への挨拶と併せ、その足での文部科学省への挨拶も考えていた。色々世話になってきたことが思い出された。しかし、こうした感謝より何より自分が渉外担当を辞した後も東邦大学を宜しくとお願いすることは必須であった。

この種の仕事は早目に済ませたかったこともある。身の軽さが取り柄だったとは言え、中国から福岡に戻った後、改めて東京に出向くなどを伊丹は最早好まなかった。

結局中国帰りのまま文科省を訪問した。外務省には行かず、同期の集まりに出た。何人かの親しくしている友達が、九州から出て来る伊丹を歓迎するとの口実で、飲み会を開いたのだ。

若くして外交官を辞めた時は、馬鹿のように思われていた。しかし今となっては、「天下り」の世話にもならずに同一職場で退職できたことを殆どが羨ましがった。

それらの全てを終えて福岡のわが家に戻った時、美玲からの手紙を見た。

その後、亭亭に会った。それとなく聞くと、読んでないとの答えだった。

伊丹は、亭亭が読まなかったことでむしろ安堵した。何を書いても亭亭母子を慰めることにはならないが、この文面では、心の傷を広げるだけだと思っていたからだ。

伊丹はそうした感想を丹東行きの日程と共に既に美玲に送っていた。
「それとなく聞いたけど、亭亭は「読まずに破棄した」と言っていました。日本の生活はゼロから始まるのだとの思いの強さは尋常でないようです。それもまた犯罪被害者たちの尽きることのない後遺症の一つと言うものでしょう。」

難しい言葉を使っていると伊丹は自覚している。美玲は辞書で調べるだろうか。調べるなど出来ない大人になっていれば、それまでの話。以前のように必死に調べれば美玲を絶望させる文面であることは分っていた。しかし、黙っていることはもっとよくない。伊丹は美玲の気持に即して考えたいとの思いを強くした。

玄界灘支部結成総会で、支部長には松野がなった。「伊丹支部長」案は松野の個人的希望だったのだが、岩瀬らが願っていた別の有力者が「決断」するまで一年の猶予を希望したからだ。実務も含め責任者が岩瀬であることは変わらない。一年後に支部長を交代する見通しで、松野は支部長引き受けた。そのことも伊丹にメールした。

時は慌しく過ぎた。

松野はアルバイト先が休みに入っている間に、札幌に出向いた。45年前に日中友好協会運動を知らしめた札幌支部学生班の同窓会に出席するためだ。学生時代と同じルートを選んだ。大阪から裏日本周りで青森に行く。昔は急行「日本海」だったが、今は特急寝台「日本海」があるだけだ。それでも「日本海」に乗りたかった。


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