その19 <区切りつけ次に>
伊丹は慌しい日本への帰国を終え、また大連に戻ることになった。郭明と亭亭に会うために帰国していたのだが、亭亭の今後に対する心配が不要であることを確かめただけでなく、郭明の生き方にも一応納得が出来た。そうなれば、最大の心配事である美玲の元に戻るのは当然のことだった。
亭亭は大学の大学院生寮に引越した。郭明は暫くはそれまでの居住を認められていたのだが、部屋の掃除をもう一度し直し、翌日には出た。そして一日亭亭の新居で過ごした。寮の管理人は闖入者を嫌ったのだが、日本語の分らない老人に何度も深々とお願いされて黙って引いてしまった。黙認する他なかったのだ。
郭明にとっては、親が娘の部屋に泊ることが断られる等は到底理解できないことだから、管理人の黙認は不思議でも何でもなかった。
はじめ母親の帰国に反対だった亭亭も、頑固な郭明の気持に負けた後、母一人では帰らせたくなくて、伊丹に同行をお願いし、母親にも伊丹と一緒に中国に戻って欲しいと懇願した。
同行を勧める娘の亭亭に、郭明は了解し、更に航空券を買って来るよう命じた。そして翌日には、伊丹と大連行きの飛行機に乗った。 郭明は、中国に戻っても長く住んでいた黒龍江省の虎林に戻る気はなかった。亭亭の居ない虎林に未練はない。 亭亭が植物人間同然で入院していたことから看護するため短い間移り住んでいた丹東にそのまま行く積りでいた。当時世話になっていた親方が何とかしてくれるとの期待がある。日本に親子で行くことになった時、親方は「また戻って来いよ」と言ってくれていたからだ。 伊丹は、一緒に飛行機に乗った郭明の気持に寄り添いながら、暫く大連に滞在するように勧めた。亭亭にも説明していた通りだった。
大連には美玲のための部屋が幸いにもある。ここに暫く居て、その後の生活の場を考えればいいと伊丹は考えた。
伊丹は貸し部屋の大家である金吉道・申美姫夫婦に、美玲ではなく郭明が暫くこの部屋に住む事情を説明した。大家夫婦は瞬時訝ったが納得した。会社の仕事を手伝う人が必要なことを美玲の場合に聞かされていたからでもあるが、大家はすっかり伊丹を信頼していたのが一番の理由だった。
寡黙で他人とは話などしたがらなかった郭明だが、久し振りの中国語世界を喜んだのか、申美姫とよく話をするようになった。美姫も実直な郭明の日本生活を聞きたがった。二人はすっかり仲良しになってしまった。
郭明は、じっとしていなかった。翌日には伊丹の事務所に来て掃除をした。二階の伊丹の部屋も掃除した。更には、食事つくりも自分が担当すると言い張った。 朝7時には事務所に来て、朝ご飯を作り、あれこれの仕事をした。夕方6時、食事を作って伊丹と一緒に食べ、片付けると部屋に戻った。それから美姫との会話が始まる。これが日課になった。伊丹は不在の時も多かったが、居ようと居まいと郭明は気にせず自分が決めた仕事を黙々務めた。
伊丹は、本来の留学生紹介や日本への派遣紹介の仕事はせず、美玲の裁判問題に集中した。「殿様商売」と揶揄されようと構わなかった。事実、元勤めていた大学から功労賞として生活費が保障されている。自分の経済条件を最大限活かすことにした。
伊丹の考えは弁護士を通して美玲に伝えられた。美玲は何も語ることはないと応えてきた。 弁護士は、無罪はあり得ない。情状酌量で執行猶予を勝ち取るのがいいのではないかと見通しを述べた。被告人美玲の贖罪意識はいいとして、その感情のままに執行猶予無しの禁固刑を望むのは法解釈上も妥当でない、と弁護士は伊丹に伝えた。 伊丹は、弁護士の考えを理解した。その上で減刑署名の要請に動いた。金・申夫婦等にも足を運んでお願いした。
一方で、吉郎には美玲が面会に行けない事情を説明しに行った。吉郎の驚愕は伊丹をも驚かせた。それだけに、美玲の代役は務められなくても月に一度以上は代理としての面会を続けた。
郭明は伊丹が何をしていようと関心を示さなかった。しかし、事務所や二階の伊丹の部屋の掃除や、食事つくりは欠かすことなく、毎日を淡々とこなした。
そんな郭明と大家申美姫との関係が密になっていった。遂には、美姫夫婦から仕事先まで捜して貰うことになった。
郭明自身は正直それほど紹介された仕事を喜んだ訳ではない。だが、美姫の熱意は、伊丹に感じた姿勢に近かった。丹東の親方の面倒見のよさとは違った。上からの同情でなかった。苦労しながら生きる者としての郭明への共感から選択した仕事先の提示であることを郭明は感じた。
河北省張家口だった。そこには炭鉱がある。金吉道の知る炭鉱で、事務所を中心にした掃除婦が急に辞めたらしい。「いい人はいないか」と金の従兄弟から連絡が入った。今までこの炭鉱と関係ない者が今度は求められていると言うのだ。
金吉道の従兄弟はその事務所の管理関係の係長をしている。同じコネで入るにしても、今度は仕事をする人間がどうしても必要だと言うことで、広く求めることになった。前任者が仕事をしないで文句ばかり言っていたのを係長は勿論、課長も口にこそ出さないが辟易していたらしい。だから辞めたのをこれ幸いとするだけでなかった。当人が辞める代りとして推薦してきた者をも嫌った。だから、金が褒める郭明の人物像に惹かれることになった。
その話を聞いても郭明は同意出来ないままだった。だがその内、丹東に戻るのはもう少し後になってもいいと思うようになった。伊丹の下にこれ以上長くいることは出来ないことも感じていた。本来部屋の主人になるべき朝鮮族の女性が拘置所から戻れそうだと聞いたことが決定的だった。炭鉱からの誘いは、自分でこそ未経験だが、炭鉱事故で亡くなった亡き夫の魂が呼んでいるのかも知れないとも郭明は感じた。
何が功を奏したのか誰にも分らなかった。しかし、結果としては、禁固5年執行猶年の判決が下った。検察側も被告人側も同意したので控訴でなくそのまま決着した。
半年振りに伊丹の下に美玲は戻って来た。 美玲は一段と年を取っていた。伊丹は、美玲の白髪頭を見て黒髪だった時代を思い出せないほど変わっていると思った。大柄の身体を小さくして、言葉少なだが、伊丹に何度も礼を言った。
美玲は、心では最早伊丹の前に出る資格はないと思っていた。 しかし、今帰ることの出来る場は大連の伊丹の下しかなかったのだ。
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