その18<定かならぬ今>
伊丹は、美玲の次の公判までの間に少しの日程で日本に戻ることにした。
美玲は商傑が死んだことが分って、自分がとんでもないことをしたと思った。 「殺すなど考えてもいなかった。でもあの瞬間、私の心は変わった。殺したいほど憎んでいた。」
伊丹は担当弁護士から美玲の様子も聞いた。美玲は言わずもがなのことまで言っている。罰して欲しいと言っている。
美玲がどう言う裁きを受けるようになるのか心配だが、どうすることも出来ない。
伊丹は福岡空港に着いた。松野が車で迎えに来た。
伊丹は、元の家には戻る気持はなかった。松野の勧めで日中友好協会玄界灘支部事務所に泊ることにした。
その前に亭亭母子と顔合せをしておきたかった。赤間まで出向きそこで会うことを連絡していた。しかし、亭亭と郭明母子は伊丹の宿泊場所となった事務所の方に自分たちが訪れると言って聞かない。亭亭の引越しが目前なのだが、それが礼儀だと言う。
福間駅から宮司の事務所までの道のりは僅かである。20分ほどを田圃など眺めながら歩くのは悪くない。伊丹が確保してくれていた母子で住む寮から赤間駅までの間は、以前は田圃だったらしいけど今はその面影はない。それに比べ、福間からの道沿いは店などが並ぶ箇所もあるが、そのすぐ裏には田圃が広がっている。
家から少し離れた場所を二人で歩くのは日本に来てから初めてのことだ。亭亭は余計に嬉しい気分で歩いた。帰国すると言い張る母親と別れる記念の散歩でもあった。
娘を除き他人に対しては無感情で生きてきた郭明だが、伊丹に対しては尊敬の念が強い。娘の再起を促し続けた人である。郭明は恩の全てを返すことなど出来ないことを自覚していた。立て替えて貰っていたお金も自分たちは返すことが出来ただけだ。
伊丹は、亭亭らからの返金を松野が預かっていると連絡があった時、大連にまで送る必要はない。そのまま預かっていて欲しいと応じていた。だからまだ手にしていないことを郭明も知っている。しかし借金を返せた事実が郭明の気持を軽くしていた。
松野は、郭明母子との話し合いの報告を伊丹から受けた。郭明の帰国は避けられないこと、伊丹としても納得するしかなかったことを松野も理解した。
松野は中国人留学生や中国帰国者の中に理解できない部分が少なくないことを伝えた。 自分の無力を感じる些か屈辱的な出来事に時折出遭うからだ。
松野は、それぞれの学生の経歴、言動こそが世界史をつくる不可欠の一つであると説いてきた。何故日本に留学して来たのか。何を学びたいのか。日本での学習を修了したあと、中国に戻って何をしたいのか。どんな役割を果たしたいと考えているのか。それぞれを自分で考え、繰り返し意識することが大事だと伝えて来た。
こうした松野の授業の進め方、考え方を理解しない学生もいたし、嫌う学生もいた。 配布した教材を丸めてゴミ入れに投げ捨て授業を拒否する者まで出た。松野に言わせれば志が狭く無礼でもあるその学生でさえ、目標にした地方大学に合格出来たのだ。松野のやり方に対する件の留学生の反抗が公的に追認された格好だった。 NHKテレビが14年前の『大地の子』に続く中国残留孤児問題をドラマ化した。中国で生きてきた「残留孤児=遺棄された子」等の運命を文化大革命の蛮行とも重ねながら進行するこの『遥かなる絆』を、松野は観た。
当時も今も日本政府は酷い。日本人も時に他国民に酷い仕打ちを平気で出来る民族だ。しかし、文革時の中国政府も中国人もその残虐さに差異は見られない。自国民を手に掛けて死に至らしめることに限れば日本人以上である。松野はこうした場ではいつも思う。賢くなることは全ての人民の権利であるが義務でもあるのだ。
松野が恐れるのは、時代の潮流に流されがちな人間の弱さの現実だ。そしてもっと悲しいのは、人間が自分の過ちを真に反省せず、居直り合理化する理屈をいつも求めたがることである。権力に近づいて利権に与ろうとする者達は、その特権的位置を最大限活かしマスコミを利用する。国民を無意識に支持させ、多数派を装い続ける。
「日本は中国を侵略していない」と公言する田母神某を、改憲派は「タノちゃん」等とも呼び、時の人、ヒーローに仕立て上げ、「憲法9条」を捨てさせようとする。この種の大規模な世論誘導は、時々の国家権力が重要な結節点で繰り返してきた方法だ。少し勉強すれば分ることなのに、自ら考えない国民を加害者側に巻き込んでいく。
伊丹は松野の文革時の話を聞きながら、商傑とその母親美玲のことを思った。精一杯生きようとしてそれぞれがそれぞれの華を彩ることもなく不本意な人生を終える。
夢多き思春期を送っていた美玲はどうなっていくのか。これまでは伊丹の与り知らぬところで美玲は生きていた。しかし、今はそうでない。自分の存在が事件を招いている。 償いはできるのだろうか。伊丹には、償いとは何かも分らない。分っていることは、美玲はもとより、吉郎のことにも寄り添って生きていたいと伊丹自身が思っていることだ。親子が共に犯罪を犯したことになる。しかもそれらは伊丹に無縁ではない。
とは言え、二人との寄り添い方は定かである訳ではない。伊丹の心は重かった。
沈黙を破って、松野は高田陽子のことを話題にした。
松野が今一番敬い慕っている人だと伊丹は素直に理解している。 高田は病気らしい。年齢が重なってくると誰にも起こり得ることだ。
松野は母親が癌であり、寿命は長くて半年だろうと担当していた医師に知らされた時は流石に驚いた。その後、ボーっとしていてバイクまま田圃に落ちたものだ。
高田からのメールでは、そうした事情ではない。むしろ、直に回復して中国にも旅する積りだと言っている。 松野は、高田の爽やかな物言い考え方に励まされる。何としても中国に職を得、彼の地で高田に会いたい、との思いを強くしている。
高田が住んでいた安徽省黄山にも同行したいと思っている。
松野は、自分の住む津屋崎の歴史的建造物を活かす運動に関わっている。先日はその町屋の特徴の一つである「卯建ち見学」にも参加していた。その卯建ちは、安徽省に多く見られる形式、と聞いている。
高田と一緒に、この建築用法の日本との関連なども現地の知識人に尋ねてみたいことの一つなのだ。 長く中国に居て日中の架け橋としての仕事に携わってきた人と旅することは、他の人と一緒だったり一人旅することでは決して得られないものがあるはずだ。何より高田に同行すると言う想像だけで気持が安らぐのだった。
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