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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第16回   16 身勝手
その16<身勝手>

 郭明は娘亭亭の日本における進学決定を心から喜んだ。そして自分にも言い聞かせた。これは一つの区切りである。これまでの恩を返さなくてはならない。

大学院に進学する前には、伊丹から援助してもらっていたお金を返すよう、改めて亭亭に言った。亭亭もその積りで貯めてきていた。返し終われば一安心だ。

日本の大学の研究生の身分を保証して貰っていたのが一番の有難いことだったはずだ。しかし恩人である伊丹や最初に受け持ってくれた先生を裏切った形でお返しすることになった。だからこそせめてお金だけは返したい、これが亭亭母子の考えだった。

丹東の病院で娘の変わり果てていた姿を郭明は忘れることは出来ない。一時は死んだかも知れないと絶望しかけたこともないではない。それが生き返ることになった。
そして伊丹の援助があって日本での生活が始まった。これ以上の望みはなかったはずだが、毎日の生活の中で、少しずつ新たな希望も生まれていた。
 
一安心の気持になると、これからの目標が郭明と亭亭とでは異なって来た。郭明はいつもいつも必死で生きて来た。与えられた条件をそのまま受容して生きていたことでもある。周りの誰とも相談はおろか雑談すらすることもなかった。

ところが掛け替えない娘が努力し自立していく姿を日々目の当たりにする中で、近頃は少しずつ自分のこれからを想像することもあった。初めて味わう穏やかな生活である。亭亭のバイトの仕方、お金の稼ぎ方にも心配はなくなった。娘のためにこれ以上必死にお金を貯める必要もなくなってきたのだ。

郭明の中に初めてとも言える人間的欲求が目覚めて来た。

美しい日本の環境は生活に潤いをもたらした。しかし言葉が不自由なままである。中国で雑談など一度として望まなかったのに、近頃は無性に話したくなった。一度思うとどんどん膨らんできた。働くことだけの人生ではありえなかった心の動きである。

中国に帰ろう。郭明は不意に考えた。娘と話すことは出来る。しかし娘は娘として生きている。男に不信感を抱いていた娘だったが、今は人を人として素直に受け入れているようだ。近頃は好きな人もいる気がする。嬉しいが寂しさは否定出来ない。

郭明は亭亭に中国に帰りたいことを伝えた。

「お母さん、どうして。」亭亭は予想外の言葉に驚いた。
「嫌。お母さん一緒にいて。私が嫌いになった訳ではないでしょう。」亭亭は問うた。

郭明は自分の気持を説明できない。言葉に直すことは出来ない。しかし娘の反対にあっても帰国の意志はより強くなっていった。

 伊丹が費用弁済人になったことで来日が実現した趙剛才である。日本での留学生活を精一杯頑張っていた。大学院入学を見据えて勉強もした。バイトの数は多くなかったが見つけると一所懸命に働いた。伊丹に借りた分の残り50万円をも早く返そうとも思った。自分の生活費を家族に依存することも勿論出来ないが、気にしてなかった。
 
ところが両親から思いもかけない知らせが届いた。

知人の紹介で韓国に出稼ぎに行っていた両親である。借金を返す見通しもついていた。家族の誰もが順調に行くはずだった。しかし、世界不況の余波は、剛才の母親に直接及んだ。自国の失業者増が問題になる中、出稼ぎ外国人の不法就労を摘発したのだ。

剛才の両親は稼ぐどころか罰金を納めるためにまた借金を増やした。その上、銀行の返済期日が迫り、違約すると父親は刑務所に入らなければならないと言う。

自分の学費生活費を得るだけでは済まないと剛才は考えた。学校に行かず、バイトだけをした。それまでの部屋も解約し、知人の部屋を転々とした。大学との連絡も断った。バイト仕事は増え難かったが学校に行く気持にはなれなかった。

大学から大連の伊丹の所に連絡が入った。連絡が不通になれば、いずれ不法滞在者として報告しなければならない。伊丹もよく知る事実だ。だからすぐ日本に戻りたかった。だが、今の伊丹はそうもいかない。仕事が始まったばかりだし、何より美玲のこともある。伊丹は松野に連絡し援助を請うた。

松野は依頼を受け、こうした時の中国人留学生の取りそうな行動を聞いて回った。
中国人留学生のネットワークは発達している。必死になれば助けてくれる者も出て来る。手がかりを聞き出すことが出来た。

松野はこう言う用事もなければ遠くに住む大学時代の友達に会うことなど出来ない。この個人的好みを加えて、福岡から青森まで出かけ剛才に会うことにした。

松野は剛才に伊丹の要請を伝えた。剛才は、お金を稼ぐことだけが自分のやるべきことだと気持を明かした。だから大学の要求に応えることは出来ないと言い続けた。

不法就労が見つかれば本人が国外追放になるだけだと剛才は考えていた。

松野は剛才を説得した。保証人になった担当教授も大学にも入国管理局は不信感を抱く。それは当該学校に次の留学生が留学しようとした際、不許可を招きやすいのだ。

長い語らいの後、剛才は、「では見つかる前に中国に帰ります」と言った。

中国に戻ってしまえば幾ら働いても、日本で得ることの出来る金額には及ばない。正常な判断とは思えない。松野の説得に抗せないために、剛才は帰る振りをしてこっそり働く積りではないかと恐れた。入管の追及は甘くない。しかも日本で留学ビザ取得の契機になった学校の責任が消える訳ではないのだ。

剛才は全て理解した上でと断りつつ、中国に戻って働く意志を告げた。親のため子がなすべきは、返済期日までに人に借りまくっても刑務所行きを防ぐことだと言う。

松野は思う。それでは借金を増やすだけで、その後に続く返済期間の生活に明るさは見出せまい。伊丹から借りている借金でも返す当てなど出て来ない。今から借りまくると言う知人らに対しても返すことは出来ないはずだ。

父親の刑務所入りを防ぐと言うそれだけで、周りに我慢を押し付けるやり方が親孝行なのか、と剛才に問うた。剛才は何も言わない。

松野の問いに何も応えなかった剛才だが、アルバイト代金を貰った翌日には中国に帰ってしまった。「飛ぶ鳥跡を濁さず」とは逆の振る舞いに松野は呆れた。伊丹にどんな説明のしようもない。中国で仕事をする伊丹が学ぶべきある種の中国人の一面を知る意義だけはあったと言うことだろうか。家族思い身内思いは、日本にもある。ただ伊丹も松野も剛才の感覚を理解できない。恩人から借りたお金も踏み倒し、更に他人から金をかき集めて自分らだけ助かる家族思いなどあっていいはずがない。

松野は剛才の立場に身を置いて何度も考えた。父親はまだ若く元気だ。二年間刑務所に入れば制度として銀行の借金がゼロになるのなら、新たな借金はせず退所後に個人的な借金の一部だけでも返す気持になればいい。それが希望ある家族思いと言うものだろう。だが彼らのは目先だけ見る身勝手な自分中心主義でしかない。

中国の国民意識は変化している。他を思いやる「ボランティア」の大量誕生が象徴だ。それは新しい中国を作る「中間層」の力でもある。だが「中間層」に入れぬ半数余の国民が払拭出来ぬ保身術、悲しい性の前で、松野は自分の無力を感じた。


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