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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第14回   14 前に向う努力
その14 <前に向う努力>

 中国の多くで見られる春節のあれこれも過ぎようとしていた。日本ではもはや旧正月を自覚させる行事は殆どなくなっている。

 ところが今年、春節15日目の元宵節に因むような企画が、福岡市の繁華街である天神近くであった。この「福岡春節祭り」は、2月7、8日の二日間賑わった。長崎のランタン祭を福岡でも実現したいと考えた人たちの願いが実った行事だが、多くの日本人はその存在も、ましてや意義など知ることはなかった。

 松野は、今年夏以後の上海での仕事が実現できるように知人に依頼メールを送った。就職活動の開始である。年齢制限があるらしく大学での仕事はない。しかし数多くある日本語学校の一つや二つ、松野を雇い入れてもいいと考える学校があるはずだと聞かされていた。それでも心配は消えない。

 上海まで出向いての仕事探しはできない。メールで尋ねるだけだ。昨年求人メールを受け取っていた大学には礼儀としても最初の連絡先にした。既に充足しているとの返事だったが、何より今年は松野の年齢が超過している。上海の大学では65歳以下を採用の基準にしていた。その後実際に日本から来ていた教員が突然亡くなったことで、この申し合わせ事項の遵守は決定的になった。松野には不運な話である。

 昨年の夏に、南京日本人会責任者の伊藤に紹介されていた九州女子大の教授にも連絡した。やはり無理なようだと返事があった。

 中国での日本語教員の仕事は沢山あると松野も思っていたが、簡単ではないのだ。個々の場合でみて、日本と中国の距離が近くないことを松野は思い知らされた。
 そこで気持新たに「履歴書」も書き直した。そして上海在住の桑野に連絡した。
今の松野は彼女の連絡待ちの状態である。

 今年は松野の転機の年になるはずだ。松野は、時々の政治的課題を考えながら半世紀を生きて来たと自認している。退職後は、地域での活動が多くなった。「革新懇話会」に馴染み易さを覚えていた。

 だが、それとの関わりも中国に行けば疎遠になっていく。それを覚悟の上、中国で仕事したいと思っているのだ。

 松野は就職活動をするだけでなく、中国での生活に備えて、色々準備した。

 松野の日中友好協会活動は大学生時代に始まるからこれまた半世紀に及ぶ。だが、先輩と一緒に設立することになった玄界灘支部の活動はこの間に開始したばかりだ。活動に必要な部屋の確保を重視し、亡き親が建てた家を事務所として使えるようにした。自分がいなくなった後でもこの場所が心配なく継続して使用されるための手立ても考えて来た。

 また、中国語会話入門、二胡教室、中国映画鑑賞、中国語日記、は中国語や中国そのものの理解を深めるための勉強になっていると松野は思っている。併せて、中国での日本語指導をよくするためには、日本語教育や日本留学試験に習熟することを考える。更に、日本語の効果的習得と日本事情の理解を深めさせるための課外活動の充実を思い描いた。演劇指導のノウハウを掴みたいと考えているのもその一環だ。

 成蹊学園の中国人留学生の進学指導にも力を注いだ。九州大学大学院を受験する劉に寄り添ってきた。劉が受けるのは九州大学大学院統合新領域学府の「ユーザー感性学専攻」である。聞いたこともない現代的な学問領域の内容が心配で、文科省も交えた研究成果の発表会に松野は出席もした。その上での「合格した」との連絡を受けることも出来た。この喜びを共有できるのは教員冥利に尽きるものだった。

 これらの仕事と直接関係無しにだが、亭亭の大学院進学を松野は気にしていた。

 亭亭は担当して貰える教授との話し合いの中で、入試の際に記述が必要な「研究テーマ」を「中国の坑夫の研究」にした。この時の事情を松野は知らない。知らないことは少し寂しかったが、亭亭が自らの生育歴と関連したテーマを選んでいったことには満足だった。父親を炭鉱事故で亡くした事実を自らの研究課題とする姿勢は好ましいことだと思った。

 しかし、それとは反対に亭亭との気持がすれ違っていくのも感じていた。松野の示唆を素直に聞いてた亭亭だったが、拒否も少しずつ目立ってきた。松野はそれを亭亭に言った。しかし亭亭はそんなことはない、と否定はした。

 大学院入試で小論文の占める位置は大きい。ところが亭亭の文章は公式的で、自分の考えが示されていない。執拗に問うと亭亭は言い難そうにだが、「この考えで20年以上生きてきた。」と反論した。

 結果として亭亭は、自らの努力と周りの人の援助も重なり、入学試験に合格した。
松野は、大学院の担当教授の事前指導における対応の仕方を亭亭から聞いていて合格を予感することもあった。亭亭の学生らしい学問に対するひた向きさが好ましく思われているのだろう。しかし、実際に合格が決定するまでは気が気でなかったのだ。それだけに亭亭と一緒に大学の掲示板で「合格通知」を確かめることが出来、嬉しくてしようがなかった。

 亭亭は手料理すると松野を誘った。亭亭の母親に加え、バイト先で親しくなった留学生も交えての食事会になった。

 母親の郭明に会えたのは松野の喜びを大きくした。郭明は娘の努力が誇らしげだった。仕事も厳しいが気分的には楽である。だが言葉は上達しない。併せて自分の知らない娘の表情に不安を感じ始めてもいた。郭明は中国を懐かしく思い出したりする。

 その前日にも中国山西省での炭鉱事故死の報道を松野は見た。亭亭も承知している。中国内でこの災害問題を分析している研究者も少なくない。それでも亭亭の今後の研究が中国の現状を少しでも好転させる役割を果たすだろうと松野は改めて期待した。

 大連の伊丹は、亭亭からの合格報告を喜んだ。松野からもその報告は届いた。

 日本からの朗報を追い風に、趙剛才の留学手続きを進めた。日本側の受け入れ体制は出来ている。剛才が用意する書類は、資金の証明だけを残すことになった。ところが、銀行は教育ローンを今に至って断ってきたと言う。こういう場合父親等に多額の借金のあることが殆どらしい。

 中国人のよく言う「大丈夫」に何度か泣かされて来た伊丹ではあった。しかし、まさか剛才の家の事情がそれまでの説明と違っていたことには愕然とした。
 しかも剛才は、成算あるはずもなく今尚「心配しないで下さい。」の一点張りだ。

 日本側との関係では既に賽は振られている。伊丹は決めた。「費用弁済人」になることだ。伊丹は亭亭の費用弁済人になって亭亭の日本留学を実現させている。伊丹の経歴や経済力では新たに剛才の費用弁済人になることを入国管理局も容認することは間違いなかった。

 剛才はその伊丹の提案を率直に喜んだ。「ご恩は必ずお返します。」と繰り返した。
伊丹は、自分の貯金通帳の写しや弁済人になる事情を記し入国管理局に提出した。

 伊丹は初仕事を何とか成就させた。中国人留学生趙剛才の日本生活も始まった。


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