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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第12回   12 初めての仕事
その12 <初めての仕事>

中国人留学生に「日本事情」を伝えることが松野の成蹊学園での仕事だ。更にそれを話題にした「小論文」指導に伴う添削作業は、時間外の仕事になるが、松野は厭わない。大学院受験の学生の「研究計画書」作成でも要請されれば、相談にも乗った。

 ある日、「交通事情」を述べる際バイクの利点にも触れたが、「留学生は安易に乗らないがいい。交通規則が異なる。右側通行に慣れた者は咄嗟の場合に左側通行の道路事情に対応し難い。八木山峠で事故死した留学生のケースもある。」とも付け加えた。

 その時、遼寧省出身の一人の学生が、「死んだ男は人違いだったよね。」と口走った。松野は聞き流しかけたが、気になって、「それ、どう言うこと。」と聞き返した。

 すると件の学生は、慌てて「いえ、何でもない。何でもない。」と発言を打ち消したままそれ以上は頑として何も語らなくなってしまった。

 松野は校長の町村に報告がてら授業時の様子をしゃべったが、そんな人違いがあるはずもないのだ。学園は進路指導などの緊急の忙しさに追われていたし、中国に出向いて噂の真偽を明らかにする方法も持たない。学園として何かすべきことがあるわけでない。二人の話はそれ切りになった。

 そんな折、松野は伊丹のメールを読んだ。初仕事の「報告書」だからか、冷静な伊丹が物語風に表現している。伊丹の高揚した気分を読み取れそうで嬉しくなった。

 伊丹の物語風「報告書」の概要は以下の通りだった。
 
大学選択の場合、留学試験の取得点数を知って最終的な受験先を決めることが多い。取得点数の範囲内と思われる各大学の中で自分の希望地などから絞っていく。しかし、大学院の場合は、受験前から大学院を決めておくだけでなく、担当教授とも事前の交渉を済ませておく必要があると、私、伊丹は考えていた。勿論ビザが下りる条件さえ完璧に備えていれば、担当教授と連絡しなくて直接受験することを認め、実際合格させている大学院がない訳でもないことは承知だ。

 趙剛才と言う若者が突然事務所を訪ねて来た。剛才が何度かの訪問時に語ったことを中心にまとめながら、「最初に関わった中国人留学事情」として記録しておきたい。
剛才はハルビン師範大学を卒業した後、大連に出て来て仕事をしていた。

 彼は、自分たちがしている仕事に疑問を抱いていた。日本語学部で四年間学んだ日本語力を使うと言うことで、同じ会社に同級生や先輩も多く従事している。会社はアメリカ資本だが、日本に関連した仕事だと事前に聞かされていた。しかし銀行ではなかった。バブル前後に流行って来たフィナンシャル**と言った類の消費者金融だと分った。日本から送られてくる借り手、保証人、財産目録、返済実績、住所、仕事先、色々な資料を打ち込む仕事なのだ。大連市外から東に少し外れた新開地の真新しいビルの中で、百人以上が毎日キーを叩いている。

 仕事は単純で難しくない。悩むこともない。労働時間は確定していて残業はない。給料も2000元で悪くない。何より大連での都市戸籍を取得できる。この仕事を喜んでいる日本語科卒業生もいたし、違和感を持ち始めた若者もいた。

この会社が、職員の慰労や研修を兼ねて京劇を鑑賞した。中国が世界に誇る芸術とは言え、剛才も多くの職員も生で観たことはなかった。だからこそ一度は観ておくべきだとの会社の考えはもっともだった。昔日本が建てていた本願寺跡が京劇の劇場になっていた。黄色の壁がその名残だと先輩が教えた。

 演目の最後は『孫悟空もの』だった。飛んだり跳ねたりは最初圧倒されていた。しかし少し見慣れてくると飽きが来ていた。終わって剛才は職場の同僚であり、彼女でもある小夏と感想を述べたりしながらぶらぶら歩いた。大連外国語大学の正門を右手に見た時、同級生の馬秀鳳がハルビンから出てこの大学の大学院で学んでいることを思い出した。大学院に勉強出来る小柄な彼女を思い浮かべて羨ましさを覚えた。

 そのまま歩いていると「日中友好 留学生紹介所」と書かれた真新しい看板が目に付いた。殊更に「日中友好」と記していることに惹かれて、扉を開けた。
 小奇麗な事務所には案の定一人の日本人男性がいた。パソコンに向かっていた顔を剛才たちの方に向けた。伊丹と剛才の出会いだった。

 剛才の会社から伊丹の事務所までは1時間はかかる。それでも仕事を終えた後、時々伊丹の事務所を訪問した。伊丹側から言えば、剛才が正式にお客となった第1号である。熱心な中国の若者の姿勢に惹かれた。助言もしながら、どうしても剛才の留学を実現させたいと考えた。今後に仕事を継続発展させるためにも必要なことだった。

剛才の考えも明確になってきた。日本語の勉強を深めると共に、新たな学問研究で中国の経済成長の一翼を担う。そのためにも日本の大学院に入学できればと考えた。

 伊丹は剛才の話を聞きながら、小学校卒業後農業に従事し、その後、中学高校大学に進級したこの若者の生育歴と、そこから導き出した今後の選択に賛同した。

 伊丹は北海道大学の友人に剛才を紹介した。その縁で弘前大学の清水教授から研究生の受け入れ余地ありとの返事を貰った。伊丹は清水教授をホームページで探し、剛才に伝えた。清水の研究テーマの一つが「現代中国の農業の課題」だった。農民を経験した後に進学を目指した剛才の現実的課題でもあると伊丹は喜んだ。

 大学院生になる場合、まず研究生になって担当教授の下で半年や一年の勉強をして大学院受験に相応しい力をつけることが通常だ。と言っても、研究生になれたらそのまま大学院入試に合格する保証があるとは決まらない。大学にもよるし、教授の考えでもバラバラの対応と言っていい。清水の場合は、研究生として受け入れたら院試合格のための必要な指導を惜しまないというタイプらしい。

剛才が寄越した「研究計画」も珍しく整っているし方向性も明瞭に見えた。伊丹の熱心な勧めもあり、清水はまだ見もしない中国人を研究生として最終的に認めた。

 伊丹は剛才に研究のあり方を指導した。清水からは「中国政府の農業政策の変遷」が来日までの課題として出された。
伊丹は剛才が調べて来たことを一緒に考えた。

中華人民共和国成立以前から各地で進められてきた土地の国有化と農民へ貸与する政策は、10年経ず人民公社化に代表される集団化に進んでいった。文化大革命の大失敗を認めた後、改革開放政策を推し進める過程で、国有の田畑の貸し出しを認めることにもなった。それが最近は田畑の大規模化推奨に転換して来た。

 改革開放の中で取り残されている農村とそこにおける農民の状況は、剛才が肌で感じていたところだから、そこは剛才の研究の強みになるはずだ。

 研究計画作成、及び勉強姿勢の確立でほぼ基準を満たすようになると、伊丹は次に剛才が留学資金をどうする積りかが気になって来た。

 剛才は「心配しないで下さい。貯金もしています。」「両親は韓国に出稼ぎに行くので、今後とも心配はないです。」と応えた。私、伊丹は安堵した。(この項 完 伊丹)

 松野は一気に読み終えた。一抹の不安を感じたが、伊丹の生真面目さを再確認した。


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