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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第11回   11 温もり
その11 <温もり>

 日本人の多くが中国を嫌っているとされた2008年。伊丹はインタネットで日本の情報を得ている。日本の中の嫌中派の増加はその事実を聞くだけで悲しい。

それらの悲しみも今、静かに過ぎていく。

2009年は日中の友好が進んで欲しいと願う人も少なくない。伊丹もその一人だ。

伊丹と美玲は二人だけの年越しそばを食べ終わった。伊丹は満足そうな美玲を見た。
 美玲が腰を上げようとしたのを止め、自分で食器を流しに運んで洗い始めた。
 
美玲は、肩を制した伊丹の掌の感触と共に初めて飲んだ日本酒の心地よさに浸った。
 伊丹は、お椀などを洗い終え流しも綺麗にした。
 
ベッドを二つにする仕事が残っている。ベッドのマットを二つに分離するのだ。部屋が狭いので、全て片付けてから寝床つくりすることを伊丹は考えていた。
 
「申し訳ないけど、そちらを持って欲しい。」

 伊丹は美玲の反応の鈍さを気にして付け加えた。

 「今日はここに泊って貰いたいけど、拙いだろうか。」

美玲は初め伊丹が何を言おうとしているのか理解できなかった。だが、伊丹の要請も、ベッドを動かそうとする意図をも理解した。

先にベッド全体の位置を90度動かした。
念のためと伊丹は露になった床を拭いた。そして、上のマットを外してベッドの横に並べた。マットが外されたベッドのむき出しになったすの子の上に敷布団を乗せた。シーツをかけ、毛布と掛け布団を乗せた。二人分の寝床が出来上がった。

「ありがとう。」伊丹は嬉しそうに美玲を見た。

美玲は複雑な自分の気持を振り返っていた。

 美玲は、元気な伊丹のいる大連に行こうと思った時、自分の中でも区切りをつけようと考えていた。心の揺れる自分を見出し、そのことに些か恥じ入るところを覚えたからである。

 美玲は離婚届用紙に自分の名前を丁寧に書いた。相手には何の意味もない。しかし自分には必要だと思う気持が生じた。念のために返信用封筒に切手を貼って同封した。

20年近く音信不通の元夫にわざわざ書く必要がないことは美玲が一番よく知っている。

 羅王も、周りの人も当然美玲たちを母子家庭としてみなしていた。

その点からも形式的な区切りでしかなかった。「印鑑だけ捺して返して欲しい。それ以外の返事は不要。最後の便りの積りです。」と書き添えた。

ところが、商傑が「認めない」とわざわざ返してきた。

息子が犯罪者として拘束されている件は、警察の勧めで連絡していた。その知らせに対してさえも、音沙汰一つ返さなかった商傑である。それとて美玲に不満がある訳ではなかった。

それが今、20年振りに商傑は反応してきたのだ。

 美玲はびっくりである。何を考えての不同意の返事なのか理解が出来なかった。
夫婦関係を復活させるはずがあるわけはない。嫌がらせが酷いと思った。出さなければよかったとも思った。でも賽は振られた。否、自ら賽を振っているのだ。

美玲は振り切るように大連行きのバスに乗った。

 そして伊丹に会った。

 既に0時を回っていた。もう1月1日だ。

伊丹と美玲は二つのベッドに並んで身を横たえた。部屋の中が暖かいから薄手の布団でも気持ちよくしていられる。

 吉郎が刑期を終えて出て来れる時までに、何を身につけさせたいか、美玲は吉郎と話し合って来た内容を語った。それまで自分も気分を若くしていなければならない。

「吉郎が私に、若返っている、と言ったんですよ。」美玲は付け加えた。
 「私もそう思う。」伊丹は応えた。半年前は勿論、三ヶ月前までの美玲と異なることを伊丹自身が感じていたことだったからだ。同じ感想を吉郎が抱いていることを嬉しく思った。

 「仕事の話に戻るけど、さっきも言ったように私はお金を儲けなくていい。今一人だけ留学生を紹介したけど、大連で仕事をしている男が訪ねて来たのですよ。それが亭亭や吉郎君と同じハルビン師範大学の卒業生だった。だからでもないが赤字覚悟の仕事になった。それでもあなたにはここで手伝って欲しい。最低あなたがこれまで貰っていた賃金と、面会に行く丹東往復2回分を毎月支給できるので。」

 美玲はそんなことはどうでもよかった。伊丹の配慮が嬉しかった。

 少し沈黙の時が続いた。

 「側に行っていいですか。」美玲は何度も反芻した上で、伊丹に思い切って問うた。
 「いいけど。じゃあ、おいで。」伊丹は体をずらして美玲の場所を空けた。

 美玲が身体を伊丹の左肩上にすべるように寄せてきた。

 布団をはぐっていた手を離して、美玲の大柄な肩を引き寄せた。お互いの温かみをお互いが味わっていた。

 美玲がちょっと動いた時、伊丹は自分の胸にある美玲の体に異常を感じた。思わず美玲の左胸に手を伸ばした。胸が無い。

 「おかしいでしょう。手術したのです。」美玲は伊丹の疑問に答えた。
 「もう15年ほど前になるの。」美玲はその時の事情を説明した。

しこりを見つけ病院に行くと乳癌の摘出手術を勧められた。手術代などある訳ない。息子の進学用に貯めていたお金と友達に借りた分で手術を受けた。
その時、吉郎はまだ小学生であった。万一の事態に陥ったら息子の養育はどうなるか。お金を借りる気はなかったが、養育は父親である商傑に依頼するしかない。一抹の不安から商傑に手紙を出していた。

しかしこの手紙に、商傑は返事を寄越さなかった。
この時は暫く怒り悲しんだ。でも手術後の経過が順調だと分ってくると、返事のなさも気にならなくなっていた。むしろ喜んだものだ。

 美玲の淡々とした言い方の、短くはない話を伊丹は聞いた。美玲の長い長い苦労の期間を思いやった。美玲が若い日に二三度口にしたことのある日本と中国の距離の遠さを、伊丹は思い出した。そして自分の責任も感じていた。

 「乳房の無い女のことをどう思いますか。」美玲は沈黙した伊丹に言葉を促した。
 「何も悪くない。」慌てて伊丹は応え、そのまま言葉を続けた。

「あなたは精一杯生きてきた。そして病気になった。あなたはあなたのままがいい。乳房のないあなたがあなたなのだ。兎に角よかった。あなたが死なずに元気になれて。」

伊丹は身体全体を一層強く引き寄せたままじっと動かずにいた。

美玲はその時、以前感じていた中国と日本との隔たりが少し狭まったように思った。伊丹に対し隠し事がなくなったことも嬉しい。伊丹の温もりが心地よかった。


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