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作品名:『玄海を跨ぐ 第三部 彩りの道』 作者:あるが  まま

第10回   10 新しき春
その10 <新しき春>

松野の2009年、新しい年が始まった。松野は餅が好きだ。正月に食べる雑煮も子どもの頃はなおさら楽しみだった。

ただ、雑煮も色々。松野は父親の里の福津市津丸地域の蒸し雑煮が一番好きだ。今、卵は安い。けど半世紀前は、鶏を飼っていた松野が母に卵を渡すと1個10円で買ってくれていた。当時のお金で10円だから実に高価だった。その卵を惜しみなく使う雑煮は贅沢な料理だと子どもながらに思っていた。松野が人に馳走したい雑煮は蒸し雑煮しかないと考えるほどの気持は今も続いている。

全ての人が世界金融危機の中で迎える新年であった。軍隊による人殺しがまた中東で始まり、特権的一部が大儲けし、大多数が不幸に陥っている。侵略戦争とはそういうものだ。その余波で石油が高騰し、ロシア、ベネズエラ等も有利になるか知れない。

「ブッシュは史上最悪の大統領としてアメリカ史に残るだろう」と、テレビで解説者がしたり顔に述べていた。松野は驚く。

では、5年前9割ものアメリカ国民にイラク侵略を支持させていたのは何だったのか。侵略に不同意で教壇を終われた教員など少数者への圧迫を黙認していた事実をどう考えての発言か。更に言えば、教育現場やマスメディアを通して熱狂させた政府のマインドコントロールの実態をどう考えているのか。はたまた、ブッシュの第一子分だった小泉による侵略支持や新自由主義、規制緩和策を絶賛していた当の解説者自身及び小泉劇場に踊った多くの日本人をどう評価するのか。松野は問いたくなる。

一方で、構造改革の名で強行してきた者達の中に、今日の労働者の危機状況を前にして尚、改革は正しかったが実施が不十分だから危機に陥ったのだと、居直る者もいる。しかもその輩は不幸の外側で安閑としていることも松野が憤る理由である。

当時の言動の一面を反省した振りをしながらその時代以後の変化を自分達の主張の正しさだと強弁する者も少なくない。また口を拭ったまま、後から過去の事件を含めあれこれ評論家ぶる手合いをも松野は嫌うのである。

毛沢東、周恩来らの文化大革命は、日本でも魔女狩り的に国民を分裂させた。その口車に乗って、文革や分裂策を批判する団体や個人をののしり排除する者達がいた。当時の毛・周のクーデター的覇権闘争を誉めそやすことで利権を得た者達がいた。しかも、文革が集結した後に同じ口で、文革の仇花である四人組だけを非難して、いつでも「正統」な批評者然としている輩も少なくなかった。今に至るもその亜流がいる。

松野は40数年前から直接体験してきたこれらの過去と現在をいつも思いやる。中国に対する日本帝国の侵略の反省はもとより、文革らによる中国人の悲劇、日本人の悲劇をも忘れずにいてこそ、真の日中友好の架け橋たり得ると考えている。

亭亭は中国で経験した元旦と異なる日本の正月を味わっていた。大晦日の夜は、中国の春節前夜、中国語で「除夕」と呼ぶ夜の雰囲気と似ていると思った。

しかし見聞きする一つ一つが珍しかった。

松野が、今年最後の日の入りと除夜の鐘と初詣を、一気に経験しないかと亭亭に勧めた。中国人が日本を理解するための一つの方法だと考えてのことだった。

お盆の時も、松野は亭亭を誘っていた。初盆の家や日本の普通の家のお盆時の仏壇などを見学させたかった。大半の日本人がお盆の時に死者に対して振る舞う気持を垣間見させたかったのだ。

松野はまず、恩師である藤井先生夫妻の家に亭亭を連れて行った。亡くなったばかりの男先生の初盆参りのためだが、亭亭のお参りを女先生に許可してもらった。松野が中国語で書いている『日記帳』は、この女先生に頂戴したものだ。そして、亭亭こそが松野の書く日記の中国語文を添削する当事者であることを紹介した。亭亭と女先生とが偶然にも繋がった事実をもまた縁だと意識して欲しかったからでもある。

亭亭は天井から吊るされた一対の家紋入り盆提灯の大きさと美しさにまず目を奪われた。紙でなく薄い絹布で覆われているのだと言う。その贅沢さにも亭亭は惹かれた。

日本の民家の外観もだが内部を見る機会は、外国人にはなかなかない。ましてや特別の日の床の間や仏壇の飾りなどに示された日本的習俗あるいは美意識に触れ得たことを亭亭は松野に感謝したものだ。

大晦日、亭亭は友達になった芝梅と一緒に夏以来の松野らの事務所を訪ねた。

日中友好協会玄界灘支部事務所では、結成総会以後、様々な活動が催されている。毎週何人もの人が出入りする。寒くなり電気炬燵も置かれた。とは言え、常時は人の住んでいない家の持つ無機質な雰囲気は避けられない。

それでも盆の期間は、仏壇に供え物が置かれ、松野の父母兄弟の写真も並んだ。
と同様、正月には正月の特別の装いがある。

玄関にはミニ門松、床の間の三宝には、鏡餅と橙、ウラジロ、ユズリハ。こじんまりした飾りだが正月の特徴は出ている。

芝梅だけでなく亭亭も、日本の風景、家、庭、内装、飾り物全てが、いつ見ても物珍しかった。今回は冬である。炬燵敷き、炬燵カバーは、綺麗で温かみがあった。

腰を落ち着ける間もなく松野は二人を促した。『結びの夕陽』に参加するためだ。

「my箸my椀」持参で年越し蕎麦を食べ、水平線の夕陽に一年の自然の恵みへの感謝の気持を込めたいとの催しは、事務所から車で10分足らずの場所で何年も続けられていた。
亭亭は会場になっている夕陽館に行くのは初めてだった。

夕陽館の横の空き地や海岸側には既に蕎麦を食べている人達がいた。甲斐甲斐しく立ち働くボランティアの人たちとは別にその間を縫っている女性が亭亭にも声をかけた。藍の家で世話になった冨美子である。今日の主催者の一人らしい。津屋崎の再生のために頑張っているこの高齢の女性の若々しさに亭亭も惹かれている。

寒かったが赤々と篝火は焚かれている。海に沈み行くこの年最後の太陽はわずかしか見ることは出来なかった。しかし、協賛の津屋崎少年少女合唱団の歌と笑顔に亭亭もまた励まされた感じだった。

松野と亭亭らは再び事務所に戻った。玄界灘支部員の畑中や副支部長山辺の差入れ、そして今回もまた松野の恩師の藤井がくれた食べ物ら諸々に舌づつみを打った。

それから三人は、真光寺の庭に並び、名前を記帳、除夜の鐘を撞き、住職や坊守、総代らと挨拶し合った。亭亭も芝梅もそこで所望したぜんざいは初めてだった。そのまま近くの宮地嶽神社に初詣に来て行儀良く並んだ長い参拝客の列を見、選抜の子どもらが打ち鳴らす三柱太鼓の元気な年明けの調べを聴いた。亭亭は中国では全く経験のなかったリズムなのだが、遠く離れたここ日本で心深く共鳴している我が魂を感じた。

三度事務所に戻り横になった。そして亭亭と芝梅は昼過ぎに眠りから覚めた。松野は遅い雑煮を馳走した。知る人とて少ない小さな田舎の日本を亭亭も芝梅も味わった。


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