その1<緑濃い季節>
梅雨の合間のさわやかな日だ。旧暦では五月晴れと呼ぶ。
松野は孫のなぎを抱えなおした。なぎは心地よい風を受けて「わああ」と声を上げた。まだみどり児と呼んでもいいのだが、松野にとっては赤ちゃんと言う時期からは少し成長している感じがしている。なぎはやがて1歳の誕生日を迎えるのだ。
松野は、大学を若年退職するという伊丹二郎との個人的な会見を喜んだ。待合わせは松野が誰彼となく誘う東郷公園にした。そこだと誰もが十分楽しめる。
公園からは270度が海だが、東側には津屋崎の街やその先の宮司の集落と宮地嶽神社が鎮座する宮地山が見える。その左手には在自山、対馬見山と緑は続く。山麓には、松野が子どもの頃とはかなり狭くなっているが、青々とした夏の田んぼが穏やかな佇まいを示している。
眼下には、松野が14年間も勤めていた水産高校がその後今の地に移転し、その「新」校舎の白い壁が蒼い海に面していた。
水産高校校歌に「風浪荒ぶ玄海の渦潮高く鳴るほとり。臨む津屋崎。天恵の試練の磯に湯浴みして。」とある。松野は誇らし気に伊丹に紹介した。
左手に目を移すと津屋崎小学校の青い屋根が見えた。ここの校歌の一節はこうだ。 「潮はほえる玄海の嵐に挑む幾年は、明日の日本を生む力。ああ健やかに伸びていく。まどい楽しい津屋崎校」。
松野が若かった頃、この地域の若者の多くが進学した宗像高校は海から隔たっている。だが校歌には矢張り「新潮寄せ来る玄海の灘」とある。「玄海」はあちこちで雄々しく歌われているのだ。それも紹介した。
松野は伊丹を新しく結成される「日中友好協会玄界灘支部(通称名=ニーハオ玄海)」に誘いたかった。単に入会を望むだけでなく、支部長就任さえも打診した。
この支部の実質的責任者である岩瀬は別の候補者を予定している。だからその人であっても一向に構わない。それでも松野は、伊丹が適しているとの考えを捨てていなかった。伊丹は日中友好協会には属してこなかったが、日中友好を進めて来たのも事実だ。松野はその伊丹の経歴が自分たちの結成しようとしている玄界灘支部に必要だと考えていた。
しかし伊丹はその申し出に感謝しながらも、丁重に断った。 伊丹は自分の今後が自分でも不確かだったのだ。
伊丹は殆どの日本人同様、日本人としてこれまで日本で生きてきた。自分が経験上得たものを通し祖国日本で何らかの役割を果たすのが自然なことだ、と思っていた。
しかし今は違った。丹東にいる李美玲の存在を知ってしまった以上、自分の役割を日本の中と定めてしまうことは出来ない。したくなかった。 とは言え、美玲が何を考えているのか伊丹には分っていない。
何はともあれ、台風前夜のために煽られていた鴨緑江で、美玲に対し「再び丹東を訪れる」と決意を示した。その約束を早く果たしたいと伊丹は思った。
そこで伊丹は大連に飛んだ。これまでは全て仕事がらみだった。今回初めて伊丹二郎個人の意思で機内の人になった。李美玲に会う。それだけの理由で旅を決めたのだ。
眼下の玄界灘は穏やかに見えた。古来より様々な人が玄界灘を往来している。個々には悲しみを誘うものもあったろう。伊丹が外交官を目指すように促した感の偉人先人たちの足跡に惹かれていた若い頃を思い出した。
その内に、美玲に初めて会った時の場面が頭を占めた。
伊丹は大学を卒業し外務省に入省した。そして、日本瀋陽領事館に配属されたのだ。 1966年から始まった非文化的な「文化大革命」の続く中、1972年に歴史的な日中国交回復を実現させた以後も、日中の交流は必ずしも進んでいなかった。
それでも1978年の日中友好条約の締結を、国として双方が取組む契機とした。中国では 小平の時代になった。日中の経済交流を一気に進ませることに繋がった。
当時若かった伊丹もできることは何でもしたい気持で仕事をしていた。日本語を外国語としてカリキュラム化している学校から要請されれば喜んで出向いて授業や講演をした。美玲の学校もその一つだった。日本語と日本事情の学習を一層進めて欲しいとの願いを伝えようとしたのもその気持からだった。
そこに高校生の美玲がいた。
美玲のひたむきさに、一人の日本人外交官として伊丹も応えようとしたのだが、それだけに留まらなかった。 何度もの手紙のやり取りを経、牡丹江のホテルで会った時、伊丹も美玲を愛してしまっていることを確かめていた。
しかし、運命と言うべきか、双方の幾つかの手違いで二人は連絡方法を失った。そしてそれぞれの人生を歩みながら、人の親にもなっていた。
伊丹は、外交官を辞し小さな大学であったがそこの一員として、周りの期待以上の実績を積み上げてきた。
中国人学生を留学生として呼び寄せる仕事をする時、時折その向うには関係が全く途切れた美玲の姿を伊丹は見ていた気もする。
だからと言う訳であるはずもないが、伊丹は変わることなく30年間大学の発展のために誠実に努めてきた。
だが、家庭の中での夫として或いは父親としては、いい評価を受けなかった。 何時しか始まった家庭内別居と言ってもいい状態に、近頃はそれぞれが慣れていた。
大連に向かう時、伊丹は離婚届に印鑑を捺して現大学理事長である妻に渡していた。息子はそれを暗黙裡に認めていた。
伊丹はいわば自由人になった気分で中国に向かっていることになる。
黒く続く大連の大地を見ながら、伊丹はこれまで日本で培ってきた生活を捨てる覚悟で着陸を待った。
大連空港での入国手続きを済ませると、建物の外に出た。 美玲の職場に電話した。夜遅くになるが、丹東の駅前ホテルで会うことを告げた。
電話をポケットに直し、タクシーが並んでいる間を抜けてそのまま歩を進めた。 10分ほどで市バスが行き来する通りに出る。そこからバスに乗れば、大連の街中に入れる。何度も経験してきたことだ。
いつも通り市内バスで中山広場に向かった。近くの本屋には喫茶室がある。伊丹は店内の書棚を見て廻り、売れ行きの本の傾向の一端を知る。1,2冊の本を買って喫茶室でコーヒーを飲みながら、本の目次やあとがきを読み直すのを楽しみにしていたのだ。
しかし今回は時間がない。大連駅前から丹東行きのバスに早く乗りたいからだ。 本屋で手ごろな美玲のための本を買う積りだったが、それも諦めた。
バスの席は上手い具合にあった。丹東に着くとそのまま何度も宿泊した駅前ホテルに歩いて入った。間もなく美玲の仕事は終るはずだ。
シャワーは好きでない伊丹だが、風呂はさほど嫌いでない。身だしなみの積りでバスタブに湯を入れ体を伸ばした。鴨緑江で美玲と別れた後の慌しい時間を振り返った。
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