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作品名:ざわめき 作者:あるが  まま

第8回   8 アルバイト
その8<アルバイト>
 
加藤紅は伊丹からテレビに出演することを知らされていた。テレビを観ながら、この間の亭亭の回復振りを改めて確かめた。亭亭の存在を丹東の警察病院で見つけ、亭亭が意識を取り戻していく過程も見てきた。嬉しさが蘇って来る。とにかく安心である。

それで紅は今回丹東の亭亭には会わずに急いで日本に戻ることになった。

中国の大学に留学する日本人の中には、中国の大学の長期休み期間に日本に戻ってアルバイトすることを常とする者がいた。中国でのバイトでは、生活費はともかく授業料が払えるほどの稼ぎには到底ならない。だから旅費はかかっても日本に必ず戻るのである。

今回は初めてのことだが、上海から大阪に航行する鑑真号に乗った。親が庭先でくつろぐ時のための竹製の椅子を買って帰るためでもあった。郵便局から送れなかったこの大きな荷物と共に、海から日本に帰ることにしたのだ。金持ちも乗る船なのだろう。船賃が異なっていた。紅は、1300元の一番安い部屋を取った。周りは皆外国人だった。

船が揺れて、ワープロが出来ず、本も読めなくなった。計画が少し狂った。

この部屋に日本人はいなかったが、4人部屋にはいた。食事の際に日本人妻となって熊本県天草に住む中国人と、その家の隣に住む中年の日本人女性と知り合いになった。中国人には小学校3年生の娘がいるという。中年女は、中国人妻が子どもに厳しすぎることを笑って伝えた。しかし、その中国人は、厳しく勉強させるのは競争に勝つためであると力説した。併せて紅に福岡の私立中学校の入試の様子を聞いた。紅は全く知らない。私立中学はもとより私立高校に行くなどは紅の家庭の選択肢になかった。この種の受験情報をほとんど持ってないためお役に立つことが出来ず、ごめんなさいと述べた。

二日間船にいた。鑑真号は九州の北側、福岡・粕屋・宗像・遠賀、北九州の沖を走り関門大橋をくぐって瀬戸内海に入る。そして大阪に着くのだ。福岡近辺では海側から陸を見た。それまで紅は逆の景色しか知らなかったから不思議な風景に見えた。

紅が乗った船は神戸港ではなく大阪南港に着く。船中で知り合った二人とも別れ、その足で名古屋の友達から紹介してもらったバイト先の長島温泉に向かった。三重県桑名市まで電車を乗り継いだ。最後はバスである。

長島温泉は想像以上に大きなレジャーランドだった。日本の多くの学校が夏休みになる7月20日からの40日間がバイト組の仕事期間だと言う。紹介された時、7月初からの丸々二ヶ月間働いてもいい、との思いは断ち切る他なかった。紅に予定されているのは住み込みの仕事である。朝の6時に起き準備して出勤、昼間の4時間半は完全フリーだが、夜の11時頃にしか部屋に戻れない。拘束時間は長いけど時給計算は8時間半だった。でも時給が1200円。紅にとってこんな好条件はない。時に、中国人観光客が何百人も一緒に来ることがあるらしい。バイト生は全て同一時給だから中国語が出来る紅は雇用者にとって使い勝手がいいと判断された。紅はここで、7月20日から8月30日まで目一杯働く積りだ。

契約が無事済んだ。電車で名古屋まで出て、名古屋発福岡着の直行深夜バスに乗った。
7月20日までは半月以上ある。それまではこれまで通り福岡の自宅からバイトに通う。時給800円は福岡では悪くない。わずかな日数をも惜しんでバイトをした。

そのバイトで午後がたまたま空きになった日、紅は友達を訪ねることにした。

毎日照りつける太陽の熱で福岡の街中は釜茹で状態だった。加藤紅は汗を拭くことも出来ないまま、天神のバスセンターから新天町を目指した。新天町に入ると一息入れた。アーケードまで冷たい空気を送り出している店もある。

新天町通りを抜ける手前に食堂「車や」がある。中国人留学生が二人厨房で働いている。蘇州で知り合った張ヘイをこのバイト先に訪ねることになった。食堂の炊事場で張ヘイが働いていることは電話で聞いていた。「暑くて忙しくて死にそう」、と電話の声は伝える。

張ヘイは仕事が空けるまで紅を待たせた。待っている間に折よく顔を見せたオーナーに挨拶がてらそれとなく中国人留学生の仕事振りを尋ねた。「中国人様々だ。」とオーナーは応じた。中国人の多くは指示された通りによく働くらしい。少なくない日本の高校生や大学生は嫌なことがあるとすぐ辞めてしまうと言う。近頃の中国人学生にもそんな者が出てきたとは言え、基本的に中国人留学生は、言葉の壁で文句を言えないだけでなく、仕事がなくなると生活できないこともあって我慢強くなるのだろう。

脱いだばかりの仕事着を紙袋に入れながら張ヘイが出て来た。「お待たせ」、と日本語が板に付いていた。そして、アパートに誘った。専門学校近くの寮を出て、アルバイト先に近い所のアパートを見つけていた。留学生の多くにとって、仕事先の確保とそれの維持の方が重大なのも、紅は理解していた。

紅は部屋に入ろうとして驚いた。太陽の照り返しで部屋がむっとしていたからではない。張ヘイが靴のまま部屋の中まで入って行ったからだ。

中国に来ているのに日本のやり方で、その部屋に入る誰に対しても靴を脱がせる日本人がいる。だから逆に、日本に来て生活している自分らが中国でしているように靴を履いたままで生活してもいいはずだ、と張ヘイは言う。

理屈は立っている。確かに畳の上には申し訳程度であれ新聞紙も一応敷いてある。でも承知できない。紅は思った。それを張ヘイに伝えた。張ヘイは黙って聞いた。しかし、それを共同住人になっている他の三人に理解させることは出来ない。必死に生きている中国人学生である。こんなことまで日本人の言い分を聞いている余裕は中国人留学生にないのだ。

自分たちでお金を出し合ってアパートを借りる方が安上がりだし、制約されることもない。だから寮を出てきたばかりだ。アパートの入居規則に、「靴のままではいけない」、と書いてなかったからここに決めたのだとも言う。紅はそのアパートの管理人が、靴ままを認めたのではなく、そんな事態が生じるとは気づかなかったからであるはずだ。新聞紙がめくれて裸のままになっている畳がさして古くないことから見ても当然の話だろう。

管理人が気づけば咎めるだろう。張ヘイ達が追い出される前に何としても改めさせたいと紅は決意した。文化の違いだから仕方ないで済むはずがないのだ。


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