その4 <時間の流れ>
「高田さん、やはりホテルに行きますか。私の家に来て欲しいけど。」 「有難いお誘いだけど、ごめんなさい。今回はホテルにします。」高田は応えながら付け加えた。
「でもホテルの前に天神に行ってみたい。荷物も少ないし。」高田は旅慣れた顔を覗かせた。
紅に勧められ空港からそのまま同行している松野と紅と共に、高田陽子は、福岡空港駅から地下鉄に乗り天神駅まで来た。15分しかかかっていなかった。高田は驚きながら、ゆっくり階段を上がり外に出た。猛烈な暑さと共ににぎわう街中の様子が迫ってきた。 中国の黄山にも高層建築物が林立している。中国で長く仕事をしている高田だが彼女の全く知らない街にもビルディングはある。林立自体が珍しいわけではない。そしてまた、中国と日本の色や形に関する美意識の大方の違いを、東京でもだったがここ福岡でも再確認した。だが、その見た目の違いからの違和感でもない。そう言う事情はその場に立たなくても分かっていた。ただ、自分が子どもの頃なじんでいた福岡の記憶と目の前の違いを高田は埋めることができなくて当惑したのだ。
記憶と実際の違いを見せ付けられると自己の過去を否定されたような気がして、心がどこかで抵抗する。
高田は、自分にとって大事な新聞は福岡日日新聞だと覚えていた。 「福岡日日新聞はどちらの方にあるのですか。」高田は聞いた。紅はその新聞も初めて聞く名前だった。後を振り返って松野に目で答えを求めた。
「太平洋戦争中らしいのですが、福岡日日新聞は西日本新聞に名称を変えていたはずですが、その西日本新聞でいいのでしょうか。」松野が口をはさむ格好になった。
西日本新聞は、十数年前に全面改装する際、大丸デパートが移転してきて表部分に店を張り出した。松野の説明を聞き、紅は右手の方を指さして高田に知らせた。
高田陽子は、指さされた方を暫し眺めた後、杖を前に出しながら福岡市の繁華街である天神の通りをゆっくり歩き始めた。歩きながら半世紀以上も前の市内の姿を思い出そうとしていた。
福岡日日新聞1947年10月1日の紙面に自分たちの結婚が報じられていると、ずっと以前に聞かされ覚えていることも、違うようだ。青春時代を過した故郷の記憶の原型が、その分また遠ざかっていく感じがした。
高田は、「私たちが結婚式を挙げたのはデパートの岩田屋だったけど、こちらの方だったかしら。」と大丸と反対側に歩きながら尋ねた。 紅は答える。「高田さん。岩田屋は、高田さんがご存知だった場所のはなくなってしまいました。少し奥の方に残ってはいます。」
高田は、自分たち二人の前途を祝ったのは岩田屋の大食堂に設けられた結婚式場であったことを、今度は松野に伝えた。
「岩田屋は福岡市内で最も代表的なデパートだったと私も記憶しています。」松野は昔を思い出していた。
松野は、子どもの頃、親と博多に来ると、岩田屋に連れてきて貰っていたことを述べた。50年以上前の話だ。
デパートは、子どもにとっての娯楽の殿堂だった。屋上には回転飛行機や木馬などの遊具があった。レストランのような食堂もあった。一年一度の宝塚会館での「ディズニー映画」を家族皆で見た後、一家にとっての豪華な一日を締めくくる場所だった。今風に言えば、レジャーランドに連れて来て貰った感じだったろう。
そんな場所での結婚式は十分ニュースになり得たはずだ、と松野は当時を想像した。 しかし現在は、「岩田屋」の看板はない。天神の交差点のその場には、銀行と学校法人の看板が上がっているのを高田も見た。
半世紀以上も経っているのだ。何もかも変わっていて不思議ではない。同じであるはずもないと言う方が当たっていよう。高田はどっと疲れを感じた。
紅は、「高田さん。食事しませんか。」と尋ねた。 「そうね。一度ホテルに行きましょうか。」高田は応えた。
紅が提案し、三人で100円バスに乗って博多駅前に行った。高田はタクシーでもよかったのだが、バスの中から街中を見るのも悪くないと思い直した。博多駅の筑紫口側を出てすぐの所に紅はホテルを予定していた。20分で博多駅前に着いた。紅と高田がホテルに行っている間、松野は本屋にいることにした。
「すぐ戻って来ますから」と言って別れた高田の後姿を、松野は見送った。
その時、松野は見知った顔が目の端に入ったのに気づいた。 朝毎新聞の記者のようだ。1時間前に福岡空港の出迎え場所で見ていた顔だ。帽子が目に付いた。東邦大学伊丹二郎の帰国を待ち構えていたテレビカメラに同行していた男の顔である。あの時ののんびりした感じの顔ではない。でも松野には分かった。松野は帽子を被らない。だから、今までもそうだったが、帽子の人を変に記憶してしまうのだった。
帽子男の横に年老いた白髪交じりの男が並んで歩いていた。 記者の知人なのだろうが、あまり親しそうには見えない。二人はどのような関係なのか。何を話しているのか少し興味を惹かれた。記者の方が怒っている。「あなたたちは・・」と言う声だけだが松野の所でも聞こえた。隣の男は心なしか目を伏せている。
松野は、その男の雰囲気に何か違和感を感じた。
しかしそれまでだった。目を転じそのまま本屋に向かった。 本屋は面白い。松野は昔から本屋が好きだった。待ち合わせはいつも本屋にし、時間より早く行って本を読んでいるのが松野のやり方なのである。
|
|