その23 <ざわめきの中> 美玲は、高田陽子と再会しこの鴨緑江の岸を歩いていた時の話の内容までも急に思い出した。高田はわざわざ日本からこの丹東に美玲を訪ねて来てくれていたのだ。
「安徽省黄山の家は買い主と折り合いがついたら処分する、その時もう一度中国に来る」、と確かに言っていた。
高田は今頃中国に来ているか知れない。そうだとしても、「美玲に会いたい」とはあの時も言ってなかった。
美玲は、再会できたのに逆に高田陽子に辛い気持にさせた自分の境遇を自覚していた。若くもない。可愛げもない。吉川を知っていた頃の青臭いまでにひた向きだった自分とは全く異なる。
美玲は自嘲的に自分を分析する羽目になった。
鴨緑江の波のざわめきがまた少し大きくなっていた。
美玲の意識に四半世紀も前の自分の姿が大きく現れてきた。吉川を愛し、そして憎んだ若い日が蘇ってきたのだ。
「あなたを恨んで殺してやろうと思っていた。」ゆっくりした言い方だった。
伊丹も言いたいことはいっぱいあった。でも何も言えなかった。黙って美玲の次の言葉を待った。
美玲は意外なことを口にした。一人ごちが続いているようにも見えた。
「それなのに、何故か自分の子どもに、二郎、あなたの名前にちなんでつけてしまっていた。名前をつける時は吉川二郎のことを決して思い出していなかったはず。」 日本語が、ずっと昔、牡丹江のホテルで会っていた時のように滑らかになっていた。 「でも吉郎とつけていた。そのことに気づいたのは、黒龍江省寧安の駅に戻って来た時だった。」
伊丹は驚いた。なるほど、吉郎は中国語ではjilang・ジーランだ、似ていると気づいた。
美玲はそのまま続けた。 「幸せな子どもになって欲しいと願った名前だったはず。それがあなたの名前に似せるためだったとは。自分の心理が恐ろしくなるほど可笑しい。」
伊丹は一層応える言葉も見つからなくなった。 伊丹にとって美玲は、遠い昔、吉川二郎の時の思い出であった。それが今現にこうして二人で会っている。しかも切れてはいなかった関係まで知らされた。
二人とも若さは既になくなっている。だが、心がどこかで揺れているようにもある。 風が鴨緑江を波打たせている。何もかもを飲み込んでいくようだ。
いま伊丹の目の前にいる美玲の息子、吉郎によって殺されかけた亭亭は幸い生き返っただけでなく、苦い思い出の蘇州大学院時代を捨て日本に来ている。昔美玲の姿と重ねながら描いていた中国人留学生、その一員として亭亭も頑張っていくはずだ。
伊丹の頭に、過去と未来が行き交った。
時間が過ぎていく。伊丹は口を開いた。 「風がひどくなっている。もう遅い時間になった。体も冷えてきた。あなたは明日が早いのでしょう。帰りましょう。」
美玲は何も言わなかった。言えなかった。少し間ができた。
伊丹は自分の気持を言い切った。 「私はここに戻って来たい。あなたにもう一度必ず会いに来る。」
美玲はこの伊丹の言葉を待っていたのだろうか。自分でもよく分っていない。
美玲は、伊丹が今告げた言葉を信じることにした。立ち上がった。伊丹も立った。
少し歩いて美玲はつぶやいた。 「小説みたい。」
美玲の唯一と言ってもいい趣味は、若い時分から変わることのなかった読書である。古典であれ、革命文学選であれ、恋愛小説であれ、本の中のヒロインやヒーローを自分や自分の周りの人に置き換えて読んで来ていた。自分らの想像を絶する出来事に遭遇した人たちのことを幾つも読んできた。
しかし、それでも吉川と再会した自分ほどドラマチックに翻弄されてきた女性はいまい。美玲は今思ってしまった。
二人とも台風間近の鴨緑江を初めて目にしていた。暗い中だが、泡立つ波が耳にも身体全体ででもずっと感じられた。
美玲は、息子吉郎に「亭亭殺し」を丹東署に自首させた後、一人鴨緑江を見つめていた時のことを、また思い出した。 息子に対し多少不安な気持も抱いてはいたが、自分は幸せだったはずだ。なのに、一気に暗黒の世界に突き落とされた。犯罪者の母親になっていた事実を思い知らされた。
そして先刻、新たに知った。息子の犯罪を発見し警察に通報した伊丹と言う日本人は何と吉川二郎だった。
自分が恋焦がれた相手は行き先不明になっていた。自分から逃げたその憎い男が、他ならぬ自分の息子の犯罪行為の目撃者になっていたのである。
そしてこの目撃の出来事があったから、結果として吉川二郎と今ここで再会することにもなった。しかも一人だけで美玲は会っているのだ。
時は過ぎていた。人は流れの中で流される。予測も出来なかった聖火騒ぎや大地震等にも巻き込まれ、心乱される。 思いもよらない幸不幸の出来事が巷の人の個々の進路選択の変更を余儀なくさせる。そしてまたその変更が新たな喜怒哀楽を生んでいく。
美玲の心はざわめく。遠く吹き荒んでいるであろうまだ見ぬ玄界灘の黒々とした様をまた思い浮かべた。 美玲がかって憧れていた大海原は、もはや美玲の心に存在しない。台風が過ぎ去った後の蒼く広がる穏やかな海を、想像することが出来ない。一層凄まじさを増した咆哮から美玲は逃れることは出来ないのだ。(第二部『ざわめき』完)
<第二部あとがき> 第一部『蒼の揺曳』第二部『ざわめき』各23章が終りました。いよいよ次は最終第三部『彩りの道( 23章』』です。数日後に連載を始めたいと思っています。読んでいただいている方には感謝しています。
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