その22 <心揺れる再会> 伊丹は、大学の仕事を全て妻や息子に委ねることを最終的に決めた。既に大学の中で殆どの重要な役割をなくしてきた。妻や息子が願った通りになったことでもある。
それで、大学人としての最後の挨拶回りが最後の中国訪問になった。その最後の最後を大連行きにした。遼寧師範大学、大連理工大学、大連外国語大学などに、何度お世話になったかと思い返していた。
その足でもう一度どうしても丹東にも行こうと伊丹は思った。
朝鮮を目と鼻の先に感じ取れる鴨緑江もだが、そこに架かっている朝鮮と中国をつなぐ友誼橋の列車やトラック群も、見ていて飽きない。あの場所が、自分が日本人でありアジアの一員であることを自覚させる原点である気が、伊丹にはしていた。
併せて、自分が目撃したことが契機になって刑務所に収容されている商吉郎にもう一度会っておきたいと思った。伊丹は幾度も宿泊したホテルにも泊る積りだ。 殺人未遂の罪で服役中の商吉郎は、面会に来たのが母の上司の羅王でなく、伊丹と名乗る日本人であると聞いた。伊丹とは、確か自分の犯行を警察に届けた男である。
吉郎は伊丹に初めて出会った。何故この場に今に至って来るのか見当がつかなかった。 母親より年長だと聞いていた。ところが会ってみると伊丹は白髪頭だが、急速に老けてきた母親より若々しく見えた。自分を悪人として見ていないのも不思議だった。自分が殺人でなく殺人未遂でいられるのも、あの犯行時に伊丹が見つけてくれたお陰だと改めて思っている。
伊丹は目の前で吉郎を見た。自分があの時あの現場で出会ってなかったら、もしかすると吉郎は牢獄にいるようにはなってないかも知れない。自分がこうして丹東に来ることもない。伊丹は、そうも思った。と言って警察に届けたことを間違ったと思うこともない。
二人はそれぞれの思いの中にいた。沈黙を破ったのは伊丹だ。
「私は一度、君に会いたいと思っていた。私は今後中国に来る機会もなくなるだろうから、最初で最後の面会の積りです。刑期を終えて立派に更生して欲しい。その時、もし私で役に立つことが出てくれば、それも縁だ。これに記載している所に連絡して欲しい。」と名刺を渡した。
伊丹は吉郎に対する率直な気持を伝えていた。
でも言わなかったが、この名刺を美玲と言う名の母親の目に触れるようになることを密かに願ってもいた。万万一の可能性に淡い期待をしてでもあった。
吉郎は黙って頭を下げた。
伊丹は警察にも挨拶に行った。友達の東北地域の責任者光英にも別れを告げた。 夕食を済ませ部屋に戻った。疲れた。シャワーを浴びるのは後にして、服を着たままベッドに横たわった。ついうとうとしてしまった。
電話か何か鳴っている気がした。自分が丹東駅前のホテルの一室に今いることを理解するまで少し間がいった。
「お客様が面会に来てあります。」フロントからだった。もしかしたら、の運命を一瞬感じた。「すぐ降りて行きます。」伊丹は応えた。
エレベーターから出るとフロントの前に一人の大柄な女性が見えた。 自分の知る美玲ではなさそうだ。誰かといぶかりながら近づいて行くと、その女性は気づいて体の向きを変え伊丹の顔をじっと見た。
「やっぱり、あなたは吉川さんですね。」女が問うた。
伊丹はあっと声が出そうになった。面影はそこにないが、自分に向かって来る声が昔を呼び返した。
「李美玲さんね。」 「はい。」 「どうしてここに。」伊丹は急くように尋ねた。
美玲は言葉を選ぶようにゆっくり話した。 「あなたが息子に渡した名刺見ました。伊丹さんの名前が二郎でした。見た瞬間すぐに会いたいですと思いました。どうしても確かめたいですと思いました。伊丹さんの居場所を探しました。警察にも聞きに行きました。」
伊丹は声を出せなかった。
美玲は続けた。「亭亭さん達の出立の朝も、伊丹と言う日本人を見ていました。でも、吉川さんとは知りません。遠くから見ていました。今夜この丹東に泊ってある場合、このホテルだったらいいですと思って来ました。」
美玲の日本語は下手になっている。敬語の使い方が初めて会って手紙をやり取りしていた頃に戻っている。久しく日本語を使ってないのだ、と伊丹は思った。しかしそう思いながらすぐ現実に返った。
「吉郎君のお母さんと言うのはあなただったのですね。」伊丹は深い感慨を繰り返した。
美玲が涙を抑えているのが伊丹にも分った。それでも涙は美玲の頬をとめどなく流れた。 伊丹も涙を拭かなかった。
伊丹は椅子のある所に美玲を誘った。
二人とも言葉を発することが出来なかった。
「もう遅いです。疲れているでしょう。私帰ります。」美玲が口を開いた。 「明日会えますか。」伊丹は問うた。
「いえ、外せない仕事がありますので休めません。会うのは無理です。」
伊丹はこのまま別れたくないと思った。次に何時ここに来ることが出来るか、分らない。
「もしよかったら散歩して貰えませんか。」伊丹は思い切って聞いた。
「私はいいです。でも吉川さん、いや、伊丹さんはいいですか。」美玲も自分の気持を素直に述べた。
伊丹はフロントに外出することを伝えた。 「珍しいことですが台風が近づいているらしいです。どうなるのか私どももよく分りません。風が強くなって来ているようですから気をつけて下さい。」ボーイは丁寧に応えた。
「ありがとう。」と伊丹は応じ、そのまま美玲を促し外に出た。
毛沢東像が目の前に現れた。
広場を突っ切り、通りを右に進んだ。人の姿は少なくなっていた。
風を頬に感じながら何も言えないで歩いた。二人とも頭の中に語るべき言葉を探した。見つけることの出来ないままに、道の外れに出てしまった。目の前は鴨緑江である。 石で作られた椅子に腰を下ろした。冷たかったが二人にはそれも気持よかった。じっと鴨緑江を眺めた。
少し前、モーアルダオガで一緒だった高田陽子にも会い、この鴨緑江を美玲は見ていた。
美玲は奇妙な成り行きを自分で納得することが出来ないでいた。しかし、どこか心の奥の方で期待していたことであったか知れない。
今は吉川二郎と二人で鴨緑江の前にいる。それだけは紛れもない事実だった。
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