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作品名:ざわめき 作者:あるが  まま

第21回   21 藍の家

その21 <藍の家> 

松野も、橋本を殺した犯人が中国帰国者であったことを知った。日本人の中には、中国語しか話せないままの帰国者を中国人呼ばわりしている。教え子の山一の場合もそうだった。
この記者殺し事件が、中国帰国者問題を具体例の一部としてであれ人の意識に上らせた。一方で反中国の材料になることをも松野は恐れた。事件の度に日中友好協会運動の不十分さを松野は自覚させられ、更なる努力の必要性を感じるのだ。

時々の諸々の思いも反映し、日中友好協会運動は展開される。松野たちの玄界灘班は、四月には「チベット問題」学習会を主催していた。マスコミの多くが表面的に扇情的に扱いがちな問題を、歴史の事実と今とを学問的にも深めていくのだ。「玄界灘」班の実質的責任者である岩瀬の学者的素養が参加者の理解を深めさせた。

そして五月行事の一つが、「中国人留学生との会」だった。松野は、一年以上の留学経験者と共に、来日して日の浅い亭亭をその一人として招いた。真面目な若者達のひたむきさが好印象を与えた。留学生が物価の高い日本で生活するのは容易でないらしいことを、参加した大人たちと共に亭亭も切実な課題として聞き取った。

その後、地元福津市の名所「津屋崎千軒・藍の家」でも、亭亭の来日感想を述べる機会を松野は作った。亭亭の来日感想は率直だった。名所は沢山あるが訪れた個所は少ない。松野に連れて行ってもらった程度だ。それでも感想は色々あった。

「日本はきれい。」「海が何より美しい。」「千軒通りの家々の雰囲気がいい。」「名所の説明は難しく分り辛い。」「中国語の説明書があればいいのかも知れない。」などを告げた。

亭亭は日本人の前で喋る機会が今訪れている不思議を改めて思った。こうした自分らの新たな運命は、商吉郎に殺されかけたところに伊丹が居合わせたことから始まっている。思い出したくもなくなった蘇州であり丹東である。それが結果として、自分にとって最も大切な母親と一緒に日本に住むことになっている。

そして、かつての友人加藤紅の所縁の人、松野に連れられ、ここ藍の家で日本人相手に自分の感想を聞いてもらっているのだ。これが不思議でなくて何を不思議と呼ぶべきか、亭亭は知らない。

「国登録有形文化財」の指定を受けるまでになった藍の家だった。この家の管理責任者は冨美子である。松野はこの人生の先輩を尊敬していた。津屋崎の街の復興に賭けていた亡き夫の意志を見事に継いでいるからだ。

亭亭の話を聞き終った後、冨美子は亭亭親子のためにもう一組あって損はなかろうと、日本的なデザインの寝具と食器等の家庭用品を調達していた。松野は自分が亭亭親子の部屋にあった持ち物を知らせた結果だとは言え、冨美子の心遣いに感謝した。

日本に戻り横須賀を拠点にしている高田陽子が大連からの帰りに福岡を訪れた時も、松野は高田を藍の家に連れて来ていた。東邦大学の伊丹訪問に同行した後、高田には日中友好協会のたまり場に泊って貰った。その際、有志の小集会を持つだけでは勿体ない気もしていた。それで冨美子に帰宅時間を遅らせ待って貰って、高田の藍の家訪問を実現させたのだ。

加藤紅も一度松野の家に来た時、藍の家を見学している。紅は藍の家の隣の豊盛の酒屋に惹かれた。張り巡らされた梁の大木を見上げて素直に感動していた。

この加藤紅が、蘇州大学の試験期間中に幸いできた休日を利用し日本に戻って来た。バイトで日本に戻る以外日本に帰ることはなかった紅である。時間もだが何よりお金を惜しんでいた。しかし今回は違う。中国語教育学会第6回全国大会が北九州大学で開かれるからだ。

加藤紅は亭亭に会った頃に考えていた卒論のテーマを全く変えていた。その当時考えていた「中国人論」でなく「中国語学」になる。より詳しく言えば「中国語教育法」「日本人の中国語学習時の落とし穴」と言ったものに近い内容を想定していた。一向に中国語学習が前進しない松野などを励ます役割を果たせるとも見ていた。

学会の大会中に発表予定されている「日本語を母語とする中国語学習者の誤用について」は、これまでにも多くの研究者によって分析されてきた内容である。それでも加藤紅は自分の卒論構想を考える段階で、最新の研究成果を何としても知りたいと思った。卒論用資料として不可欠だと考えたのだ。

紅の急な帰国は、日本の生活を始めて間もない亭亭に会うことでもあった。併せて言わずもがなだろうが亭亭を宜しくとのお願いを、伊丹にも松野にもしておきたかったのだ。

加藤紅はJR福間駅で松野に迎えられ、亭亭に指定された津屋崎千軒藍の家に着いた。松野は用事があるからとそのまま別れた。

冨美子が懐かしそうに声をかけた。その傍らにいた元気な亭亭の顔を久し振りに紅は見た。一年余の空白がなかったような気持にもなった。おまけに自分の故郷の福岡にいる。心は今まで以上に接近できた感じだ。

「会えて嬉しい。これからもよろしくね。」決まりきった言い方だが、紅は正直な気持を述べた。

すると亭亭から思いも寄らない言葉が返って来た。
「私はね、中国で普通に過していた時に知り合った人と関係を断つことにしたの。」

紅は絶句しそうになったが、「どうして。私とも。」と問うた。
「そう。リセットと言う言葉があるでしょう。それです。私はゼロから始めます。」
亭亭が淡々と言う言い方にも驚いた。

冨美子はお茶を持って来て二人の間の雰囲気を感じた。が、何も言わずに座を外した。

加藤紅は自分のことを思い出した。自分の嫌だった頃に関わる全てを忘れたいと思ったことが自分にもあった。それが今も尾を引いてか、中国に行く前の人間に対しては懐かしさなどとは全く無縁の関わりをするようになっている。だから逆にかって嫌な印象を持っていた人とも、今の自分が初めて会った人として快活に話ができるのだ。

「分った。私が日本に戻って来て何かの事情で再会出来たらいいね。」紅は区切りをつけ明るく言った。

「そうね。会えたらいいかも知れませんね。」亭亭は何の感情も見せずに別れの言葉を返した。

亭亭の気持の中に紅と言う存在は消えていることを紅は確かめた。亭亭が待ち合わせの場をわざわざここ藍の家にした意味をも紅は考えながら、冨美子に挨拶し藍の家を後にした。私も私なりのこれからを精一杯生きよう、と紅は自分に言い聞かせた。


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