その20 <習美男の供述>
山一の母親が住む福津市の県営住宅は樹木の名が棟の名前になっている。
「柊」411号は、電気も水道もガスも止められたままだった。郵便受けには宣伝のチラシが突っ込まれて溢れていた。一部は廊下の床に落ちたままだ。ベランダも雑草が生い茂ってもいたし、隣室らの住人は嫌っていた。
中国帰国者福岡東部責任者の安田は博多署の警官を引率する形で毛の部屋に向かった。毛が中国の大連で殺されたのだと言う。犯人も分っている。中国人の若い女で習美男と言うらしい。
ハルビンから貸し部屋分の徴収金を届けるように毛に言われ、習美男ははるばる大連まで夜汽車に乗ってやって来たのだ。そこで偶然の惨劇が起きた。
犯人の習は、警察の取り調べに興奮したまま捲くし立てた。
「私が殺した。殺す積りはなかった。でも死んだ。」 「あの男は酷い。僅かなお金で私を縛った。命令に背いたら叩かれた。」 「今度は、ハルビンからお金を持って来させながら、感謝もしない。お金を渡すように命じた。私がハルビンからお金を持ってはるばる出てきたのだから、いくらケチでも現金を確かめた上、半分位は私に渡すと思っていた。」
「あの男は、大連の女とじゃれながら私に、お金を置いて帰れ、って言ったの。」 毛にとって特別の女はいなかった。その時々に都合の良い女を見つけ、つながっていた。用が済めばその都度それでお終いにする積りなのだ。
女たちもそんな毛を理解するのは容易しかった。毛は駆け引きなどしない。単純な男だ。
毛は機嫌が良いときと悪いときの差が甚だしかった。女たちは毛が渡すお金だけが望みだ。そのためには相当の我慢を要する。それは他の仕事でも同じと言えた。一日朝から晩まで働いても30元など貰ったことの無い女ばかりが毛の相手を務めた。 毛は習美男をどちらかと言えば気に入っていたし、長く続いていた。美男の膝を枕に、耳の垢を取って貰うのが好きだった。
「俺にとって文化大革命ほど怖いものはなかった。」 およそ政治に無関心な男に怖いと思わせる文化大革命とは何だろうと習は思った。 「何で。」と質問した。 毛は応えた。
「日本人に生まれたことを今は喜んでいるけど、あの頃は、自分の運のなさを歯がいがっていた。」 「日本のスパイとして扱われた。これは容赦なかった。泥棒にさせられたこともある。ウンと言わなかったら叩かれるし、ウンと言ったらまた食事を取り上げられた。」 「気がついた時からずっと働いていた。学校なんか行ったことがない。日本のスパイとか言われている意味も初めの頃は分からなかった。叩かれて痛かったことはよく分かった。」
「母親が死ぬ直前、お前は日本人だ、と教えた。どう言うことだと言っても答えない。熊本県の水前寺と言うのが親の名前らしいことは分かった。」
「結婚して子どもも一人生まれた。でも耕作権を売って町に出て来た。土方の仕事は性に合った。騙されてただ働きを何度もさせられたが、何と言ってもお金をすぐ貰えるのがいい。」
「俺は勧められるままに日本に行った。家族も呼んだ。日本は良い。働かないで金を貰える。それも大金だ。お前たちにも恵んでやるよ。」
「日本に来て、娘が結婚したので、それを機に女房とも別れた。」
習美男は毛の口調を真似ていた。
一息入れた。事件にからんできた、と捜査官は思った。 「俺を馬鹿にした奴を金持ちになって見返ししたい、なんてよく言っていた。臆病な癖に言うことはデカイ。」 「私は、毛のだらしないことも他人を信用しないことも承知していた積り。酷い扱いを受けても辛抱してきた。でもね、我慢できないこともある。だから殺した。いや、殺す積りはなかった。」
「この毛も人を殺したことがあるらしい。そんなこと私は興味もないけどね。一度聞いたことがある。毛も相手を殺す積りはなかったのよ。」 「毛はバイトの仕事から帰るとき一番嫌な新聞記者に出喰わしたらしい。びっくりして逃げた。でもいくら逃げても追い駆けて来る。電車の小さな駅を降りて、以前汚泥上げで働いたことのある上水道会社の方に走って逃げる積りだったが、それでもその日本人は馬鹿でどんどん追い駆けて来た。この男から逃げ切るため、護身用としていつも持っているナイフを見せた。でもその日本人は怖がるどころか振り回している毛に近づいた。運が悪くてお腹に刺さった。毛の腕力は半端でないからね。」
「その後が毛らしい。その日本人の着ていたものを全部剥ぎ取って死体だけを川に捨てたのだと。そして頭がいいと言うか、ずる賢い毛は次の日には何もなかったような顔をして大連に戻って来たのだと聞いた。大言壮語の毛のことだから、どこまでが本当のことか私は知らない。知りたいとも思わない。」
安田は警察から犯行事情の概略を聞いた。新聞記者橋本の死を悲しんでいたが、その犯人が自分たちと同じ中国帰国者であったことに責任を感じた。美男が供述した通りか否かは安田には分らない。しかし偶発的であったとしても、毛が橋本を殺し、美男によって殺された、この二つの殺人事件は間違いないようだ。
毛の自分勝手ないい加減さに辟易する経験をしていたので、毛の死そのものには自業自得の感を否定しない。それにしても罪を犯した者があっけなくこの世を去る現実を悲しく思った。死んだ橋本は救われないとも安田は感じた。
|
|