その18 <親子の旅立ち>
美玲は、亭亭親子が日本に行くことを人伝に知った。そうであれば会えるのは最後になるかも知れない亭亭親子である。
郭明も日本に行ける。同年齢の郭明に美玲は羨ましさを覚えた。30年前「吉川二郎さん」と呼び名していた日本人と日本で生活を共にするかも知れないと夢見ていた幼い自分を不図思い出した。「玄界灘を見たかった」と美玲は一人呟きかけて止めた。
美玲は、母親の郭明だけでなく亭亭とも一度病室で会っている。亭亭は何も言わなかった。恨みも何も無いような表情を見せた。でも二度目に会いに行った時は、扉の前で「帰って下さい、二度と来ないで下さい。」と言われた。
罪を犯したのは息子であって自分ではない。心から詫びているし、何か役に立つことがあれば、喜んでしたいと願っている美玲である。ささやかなはずの願いすら拒否される自分が悲しかった。でもそれが罪を犯したと言うことから逃れ得ない事実の重さなのだろう。美玲は認めるほか無かった。
遠くから見守らせて貰おう。美玲は改めて申し訳ないと思った。
亭亭は蘇州から丹東に戻って郭明が借りている部屋に親子で寝泊りし、蘇州から持ち帰った物と一緒に荷造りをした。
伊丹は丹東から大連までも飛行機に乗ってもよかった。しかし、亭亭も母親の郭明も肯んじなかった。丹東の長距離バスセンターは伊丹のよく泊る駅前ホテルから歩いてもすぐの距離にある。前日購入したバスの切符を親子に渡した。
伊丹は、丹東に来る前に福岡の自分の大学の応接室で高田に聞いていた商吉郎の母親のことが後から少しづつ気になっていった。美玲と言う名は珍しくないが、懐かしい名前である。自分の知っている美玲は最初吉林省にいて黒龍江省に引越していた。
高田が美玲に最初に出会ったのは内蒙古だった。今遼寧省に引っ越しているらしいが、伊丹の知る美玲とは当然別人のはずだ。それでも亭亭に吉郎母子について話題にしようと試みた。しかし亭亭は聞き損じたのか伊丹の問いを無視した。伊丹も、加害者に関することを被害の当事者にそれ以上問い続けることは躊躇われた。
親子が丹東を去ると言う朝、美玲は遠目に見送った。看護士や道路掃除の親方らしい男と共に日本人が手伝っていた。中国でテレビ出演した際に横顔を見せていた伊丹と言う人物だろうと推測した。
会ってみたいと思った。でも近くには亭亭親子がいる。門出を不愉快にさせる訳にはいかない。第一伊丹なる人物に会っても何を言っていいか分らない。文句を言う気はなくなっている気がする。だが、息子の犯行の目撃証人に感謝すると言うのも矢張りしっくりこない。離れて見送るしかなかった。
伊丹は大きな荷物を持った亭亭親子に付き添う形でバスに乗った。そして大連に着いた。大連まで来れば、福岡はすぐだ。
松野は加藤紅の依頼でもあるし亭亭母子を歓迎したいと思った。また、高田陽子と一緒の突然の訪問時の伊丹が示した手厚い応対に対する感謝を改めて示す気持も込めて伊丹に再会したいと思った。
福岡空港に来るなど殆どなかった松野だが、中国の若い女性、亭亭の命を救ったと言う伊丹のことに興味を持って見に行ったのが始めてだった。二回目は、大連帰りの高田陽子を迎えた。そして今度は亭亭母子と伊丹一緒の迎えである。今にして思う。この三度の迎えそれぞれが松野の気持をその都度高ぶらせた。
松野が待っている乗客出迎え場所に着いて、伊丹は恥ずかしそうに小さく手を挙げた。松野に比せば10歳若い。競争が激しい大学運営の先陣を駆けて来ていたので、急速に白髪も増えている。それが伊丹の穏やかな紳士の性格を印象付ける。他人事だから言えるのかも知れないが白髪も悪くない、と松野は思った。
亭亭母子は、伊丹の後から恐る恐る従っていた。松野たちの間でも何度か話題にしてきた人物だから松野にとって初対面の感じは薄い。二人を心から歓迎したいと松野は思った。
東邦大学の迎えのマイクロバスが来ていた。大きな荷物があっても構わないようにした配慮だった。伊丹は松野に「よかったら途中まで乗られませんか。」と勧めた。
松野は三人と共に乗った。伊丹は如才なく松野の活動について尋ねた。日中友好協会運動に対する伊丹なりの関心が窺えた質問だった。松野も来日した二人のこれからに期待している旨を伝えた。日本語が分らず黙っている郭明に娘の亭亭は時々通訳した。郭明はその意味を理解し、松野の方を見やって頭を下げたりした。
小一時間後、松野は福間駅前で降りた。親子二人は大学が確保している幾つかの民間アパートの一室に案内されるのだが、二人とも、部屋を片づけ、自分たちのこれからの住まいをどのようにするか漠たる夢を描いていた。
伊丹は二人を部屋に入れた。
部屋に入って二人とも思わず「わっ」と喜びの声を上げた。多少古いけど、綺麗で清潔な部屋だった。掃除の必要などないのだ。黒龍江省の自宅や丹東の借家はもとより、大学寮とも全く異なる。狭いけど二部屋ある。伊丹が亭亭の勉強時間を考えて二部屋付きが必要だと大学の宿舎係に要請していたのだ。伊丹は母子の反応を喜び、大学に接して建つ自宅に帰って行った。
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