その17 <砂漠から街へ>
タクラマカン砂漠を南北に走る「砂漠公路」は560qあると言う。呉雲雪と別れウルムチを出発した亭亭のバスは暗くなって砂漠入り口にたどり着き、夜通しかけて砂漠を突き抜けた。 寝つきの悪くない亭亭なのだが、この深夜バスでは眠れなかった。車内禁煙となっているが運転手はたばこを吸う。その煙が亭亭の座席にも流れて来る。それも嫌だった。小さな一角に閉じ込められ身を横たえている。バスの中にいるからこそ余計に感じるのだろう。
亭亭はこの漆黒の砂漠に放置されている感じさえ覚えた。亭亭の周りには人の住む場所があり、一方住めない砂漠もある。荒涼とした自然には触れ得る喜びなどない。
日本事情を勉強していて理解し難いことの一つが日本人の自然観だった。自然が緑色で象徴化されている。自然は善的存在であり、自然破壊は悪であった。この広大な砂漠を歩き、砂に覆われて体を癒した日本人の手記を読んだ時も、亭亭は共感できなかった。 また煙が漂って来た。運転手のすぐ後ろに男の後姿が見えた。吸いたくなった客がそこまで行って吸うことになっているのだろう。
朝、砂漠を抜けて民豊に着いた。新疆ウイグル自治区の変わり映えの無い小さな町であったが、どこでも同じようにバスが着けば着いたで一段とざわめいていた。客引きのウイグル人に囲まれた。亭亭は早く蘇州に戻りたい気持を強くした。 周りの人を振り切って切符売り場に向かった。
ウルムチには戻らず、トルファンに行くことにした。そこから上海行きの列車に乗って蘇州に帰る積りだ。
4時間ほど町をぶらついた。ウイグルの料理も最後だろう。再びバスの人になった。
昼間の砂漠はどこまでも続く。漆黒の世界とは全く逆の景色なのだが、亭亭にとっての荒涼感は同じだった。
トルファンに行くには乗り換えなければならない。長距離バスは乗り換えのバス停まで行かず、道の端に寄って降ろした。バス停までは送り迎えがあるとの説明だ。事実普通車の運転手が待っていた。
15分ほどでバス停に着くと運転手は15元を要求した。亭亭は瞬時に反発した。バスの切符は乗り換え地点までのはずだ。押し問答の間に10人ほどの男たちが群れて来た。亭亭は丁寧に自分の考えを説明した。運転手は請求し続けていたが、亭亭が重ねて「警察に行って理非を明らかにしたい。」と言うと、一人の男が「諦めろ」と運転手に言って座を立った。それを潮に輪も崩れた。亭亭は待機していたトルファン行きのバスに急いで乗った。
天山山脈の麓の荒野の一本道を小ぶりのバスは直走る。そして緑の風景が亭亭の前方に見え出した。
オアシスの町に出会えた昔の人の感動ほどでもなかろう。が、葡萄のつるがそここに見えるトルファンは亭亭にとっても嬉しい場所に映る。しかし緑=グリーンの世界が数十分の距離を違えれば全く異なる世界に変わる。その環境の違いは不可抗力である。その中で古代から今に至るも人は必死に生きて来た。
自分の身に生じた出来事も、自然そのものだ。いいことも悪いこともある。これからの日本行きが吉凶いずれかも不明だ。でも結果としてその道を選んだ。これまでと同じように親子して選んだ道をひたすら走るだけだ。亭亭は繰り返しそう考えた。 トルファンから乗った上海行きは混んでいた。座席指定券を手に入れることが出来、寝台券を買わずに済んだ。伊丹の希望に応えての中国国内旅行の最後は蘇州である。
蘇州大学の寮には自分の持ち物もそのままにしていた。部屋替えもあって荷物は全て濾燦燦がまとめて保管して呉れていた。燦燦の部屋のひとつのベッドの上に置かれていたのだ。 小さな布製の袋にはバイトで得たお金をコツコツ貯めた貯金通帳も入っている。亭亭はカードが嫌いだ。省を離れるとカードでしか貯金が下ろせないのは知っていたが、わざわざお金を使ってカードを作る必要もないと考えていた。 だから、北京での大学院生弁論大会に出場できた場合、旅費が貰えることも分っていたし、必要最小限の現金だけ持参しての参加だった。
寄宿舎に戻って燦燦から受け取った荷物の中に通帳を確かめほっとした。これで大学院を中退し寄宿舎も退寮する手続きや、友達への感謝と別れの挨拶が出来る。
亭亭の退学、退寮の手続きに際し、燦燦は全ての行動を共にした。休学の方がいいのではないかと燦燦たちは勧めた。
亭亭は、とりわけ燦燦や加藤紅が掛け替えない友達になっていることを認めている。それでも、蘇州大学大学院入学の事実を消し去っても惜しいとは思わなかった。今から第一歩を歩み出すのだと言い聞かせていた。
加藤紅も毎夜顔合わせに燦燦の部屋に出向いて亭亭と会った。自分の故郷の福岡に亭亭が留学すると決めたことは既に承知していた。だが、いよいよ間近になったことが余計に嬉しがらせた。
全ての手続きが滞りなく済んだ。
亭亭が蘇州駅から北京に行くのは弁論大会出場で乗った同じ列車である。燦燦と加藤紅が見送りに来た。亭亭はホームまで来られるのを余り好まない。列車が出るまでの時間、窓ガラスを挟んで列車内とホーム上に別々にいる時間を持て余すからだ。それで駅前の食堂で早い夕食を共にし食堂の前で亭亭は二人と別れた。
紅とはまた日本で会えるだろうが、燦燦とはどうなるか分らない。それでも、それぞれの人生で、必要になったら再会もあるだろう。なければそれぞれの場所で精一杯頑張っているだろうことを想像していたらいい、と亭亭は考えるようになっていた。
亭亭は思う。北京から列車に乗り換え、母の待つ丹東に行けば、後は伊丹に連れられ日本に行くだけである。
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