その16 <橋本の周辺> 裁判所による政府との和解案が提出されるかどうか、「中国帰国者人間性回復裁判」運動が岐路にあることを橋本たちは予感していた。原告の年齢からも悠長に出来ない。
そして、安田はじめ心ある帰国者たちも自分らの周辺の憂うべき諸問題をこれ以上黙認できないと思った。裁判では連敗が続いていたし、今後の見通しも必ずしもよくない。
一方で自分らと支援者の運動は進んでいる。だからこそ負の部分も多く人の目に触れる可能性も大きくなってきた。橋本に繰り返し指摘されなくても運動の中心にいる者は判ることだった。
安田は、福岡に戻って来るように呼び出していた江と久し振りに顔を合わせた。 安田は言う。「大詰めを迎える。そろそろ訴訟団に加わってもいいのではないね。」 江は応える。「誰に何度言われても同じ。あんた達は好きで裁判している。俺は好きでない。」 安田「裁判の結果で人間らしくなれるはずなんだ。」 江 「俺は与えられたお金で好きなようにやっているから、どうなっても関係ない。」 安田「支給額も変わる、使い道も制約が少なくなる。皆の望みだろう。」
江 「嫌だね、裁判なんて。無意味。結論は決まっている。時間もお金も勿体ない。俺は俺の権利でお金を貰い、そのお金を使う。誰も文句を言わせない。」 安田「あのね。政府や自治体の中で、中国に戻って好き勝手やっている者に手厚く保護をする必要などない、と言う人も出ているんだよ。」 江 「それがどうした。俺一人が迷惑を掛けている訳ではない。」 安田「あんたは時々の事務手続きを人に押し付けているだろう。」 江 「それがあんたの仕事だろう。嫌なら責任者を辞めればいい。別の人に代わったら俺はその人に頼むだけだ。」 安田「そういう言い方はなかろう。」 江 「真面目が好きな人は真面目に生きればいい。俺は邪魔しない。だから、俺も誰からも邪魔されたくない。」
安田は、江と話す度に江のああ言えばこう言う態度に腹が立っていた。しかし、不満を周りの誰彼にぶちまける気にはならない。隣の人をも信じない生き方は、文化大革命を潜らされた世代に多く見られた。若かった日本人孤児にも苦過ぎる体験だった。
新聞記者の橋本は、裁判が大詰めを迎える中、帰国者の個々人を取材して記事にしていた。帰国者の人間性回復を願う世論形成に役立つものだと、佐々木たちも認めて感謝していた。
中国に住む養父母に会いに行けば、その旅行費分が次の生活保護費支給の際に差し引かれる。国外旅行は贅沢だし、贅沢できるくらいなら保護費は不要だ、が理屈だった。名指しこそないが、江らの勝手な中国生活の行動の事実をあげつらって、子として当然の中国の養父母の墓参りの要望さえをも押し潰す役人もいた。
当然江は橋本の取材の対象になるのだが、江はいつもインタビューから逃げていた。
しかし橋本は執拗に追い求めた。ハルビン近郊チチハルでの旧日本軍廃棄毒ガス流失事件裁判の取材の際に、橋本はハルビン近郊の江の家を訪問している。
江が家族と住んでいたのは古い集合住宅の一画である。日本帰国が決まっても江は処分しなかった。三部屋の内の一つを自分の部屋として確保し、他の二つを別々の家族に貸し賃貸料を得ていた。
橋本が訪問した時、江は頑として橋本を部屋に入れなかったし、自分が部屋から出て行くこともなかった。ドア越しに「帰れ、帰れ」と喚いた。
江はこの後、密かに大連に一部屋借り橋本等の目を逃れた。日本から出頭要請があっても、すぐ福岡の役所に行けるようにもしたのだ。裁判も含め諸々の事態が沈静化するまではこの「秘密」の場所で自分のしたい放題をするのだと、思っていた。
高田陽子は、安田や佐々木らの苦衷を、その言葉や表情に読み取った。「醜い日本人」と侮蔑される江についても、高田は哀れさだけでなくどこかで愛しさと言ってもいいような感情さえ生まれていた。
自分が関わることになった多くの男たち女たちに対し高田は厳しい批判をする。しかし一方で全てに共感するところもあった。日本人であれ中国人であれ、悲しい過去が醜さをもたらしていることを、長く生きてきた中で身に付けていた。江についても同じであると、話しながら高田は感じていたのだ。
『中国帰国者との交流会』の場に別れを告げ、松野とバスで宗像市に向かった。
高田は、中国帰国者に突然会うことも厭わなかった。しかし福岡に着いたその日に伊丹に会うのは好まなかった。慌し過ぎる。それでも、事前に松野が連絡したら明日以後は長期不在だと言う。しかも5時過ぎの訪問を希望すると言うことだったらしい。高田は、無理を言っての訪問だったから、疲れはあったが、兎に角会えることの喜びの方に気持は既に動いていた。
バスを降りた赤間営業所からタクシーに乗った。丘の上に大学の建物が見えていた。伊丹の東邦大学は想像したよりもずっと近かった。隣接の高校の生徒が下校しているのに出喰わした。ひ孫に近い彼らが可愛いかった。
応接室に通された。伊丹が自分を歓迎してくれているのを高田は感じた。それだけで訪問してよかったと思った。殺された橋本の件も話題になったが、誰もその後の捜査状況を知らない。
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