その15 <奇妙な「日本人」> 高田陽子は、悲しい話の美玲と別れ、丹東から大連に戻り、娘夫婦の家で少しゆっくりした。
コーヒーを入れながら娘の琴妮が言った。 「年寄りの日本人の囲い者になりたがる中国人女性がいるらしいのよ。」
陽子は、女を金で釣る話を聞く機会が少なかった訳ではない。が、興味はなかった。しかし今回は、「年寄りの日本人」が気になった。「その日本人は何をしている人。」と聞き返した。
「事業家ではないし、大金持ちでも何でもないの。女の子たちが貧し過ぎるのよ。」 「前はハルビン近くにいたのだけど、急に福岡に行く必要が出て来るとかで、福岡直行便のある大連に引越して来ているらしい。」
「どうしてあなたがこんな話を知っているの。」陽子は疑問をぶつけた。
娘の琴妮はちょっと恥ずかしそうに言った。下ネタ式の話だからだ。
「赤い服を着せたがる醜い日本人、と言った記事が三文新聞に載り、一部テレビでも面白がって取材したので一般の市民も知ることになったの。本人は貿易商と名乗っているらしいが、誰も信じてない。怪しげな男らしい。」
中国の食品に対する安全性が繰り返し日本で厳しく問われている。その都度出て来る事件を悲しんだ。日本側の反応に対する中国側の反発は、日本政府要人の言動に対する非難となることもある。また日本人の中の愚かな出来事をニュースに仕上げて、中国人の鬱憤を和らげる試みも繰り返し出て来る。
陽子はこうした反日気分の煽りをこの一連の報道に感じた。日本にいる時は逆に意図的な反中国宣伝に出喰わすことが度々だった。
日中友好を願い続けた陽子には、双方のマスコミに不満なのだが、その口実を与える政治家にも国民個人にも腹が立って仕方なかった。この十年近くは特に多くなった気がするのだ。
とは言え、軽視し合う関係の国が話題にもならないことを考えたら、反中、反日それぞれの宣伝は真の友好に至る過渡期の現象だ、と高田は思うことにしている。
高田陽子は、「福岡」が引き金になって、福岡に寄ってから東京に戻ろうと予定を切り替えた。加藤紅は蘇州だろうから、松野に会いたい。美玲の息子の犯罪を見つけたと言う伊丹に会えたらもっといい。陽子の好奇心が働いている。
陽子は、「福岡に寄りたい」と松野のアドレスにメールを送り、松野からの「空港に迎えに行く」との回答を受け取った。心が騒ぐ。福岡に行く楽しみが一層膨らんでいくのを陽子は感じた。 高田陽子が福岡空港に降り立つのは二度目である。出迎えコーナーに松野一大の姿をすぐ見つけた。
陽子の来福の日、松野には予定があった。『中国帰国者との交流会』である。
政府との和解を成立させて帰国者たちは裁判所への提訴を取り下げた。生活保護費でなく特別年金や特別住居費分などの受給を可能にし最低の人間性が回復されたとみなしたのである。
そしてくつろいだ気分での集いが春節に合わせて計画された。日中友好協会福岡支部が支える『新春の集い』だった。皆で餃子を作って食べた後、帰国者本人、弁護士や支援者代表の挨拶に混じって芸達者が素人芸を見せたりして楽しむのだ。
数日前佐々木艶子から松野に電話があった。今回は誘いがなくても行くことにしていた松野は、朝早く福岡市内の会場に行った。受付に座っていた佐々木に挨拶し会費を払った。そして餃子を作る人たちの輪の中に入った。
高田を迎えに行く時間が来た。松野は餃子を食べることなく福岡空港に向かった。地下鉄に乗ればすぐだ。
高田陽子とは半年振りになろうか。杖を突いたままだが、前回より顔色もいい、と松野は思った。母親の元気な姿に出会えた安らぎを感じた。
中国帰国者との集いの様子を知らせると、高田は自分も行って一目雰囲気を見たいと言った。松野は高田の荷物を持って案内した。
『新春の集い』会場に着いた時は、バナナの叩き売りの口上と実際にお金を出して買ってくれる人とのやり取りがあった。中国で歌手として活躍していた帰国者の一人の朗々たる歌声でも賑わっていた。閉会時間を迎えていたことでもある。
松野は、佐々木と安田に引き合わせた。二人とも自分らより年配の高田の訪問に感謝した。
挨拶のやり取りが少し続いた。日中友好協会には結構な歳の人も少なくない。それでも高田の年齢に似合わぬ単独での行動力にそこにいる誰もが感心していた。
その時、突然高田が奇妙なことを口にし出した。「赤い服が好きな日本人」について二人に尋ねたのだ。安田は黙っていたが、佐々木が応えた。
「江のことでしょう。訴訟団や私たち支援者の中でも気にしている人もいる。いや、困っている人がいます。」と悲しそうな顔を高田と松野の双方に向けた。
「でも江一人だけでないのが問題なんです。」佐々木は更に続けた。
「生活保護費を取りに来て、また中国に戻る人がいるらしいのです。中国の生活では日本の保護費の半分もいらない、と言われています。」
高田はこの江に中国人の中の利己主義を見ていた。松野は、深い悲しみを覚えた。佐々木の気持がよく分った。様々な市民運動上に生じている共通の課題でもあった。
安田は言葉を発せなかった。が、一年前の江とのやり取りを悲しく腹立たしく思い出していた。
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